2021年6月17日木曜日

明治10年頃の弘前絵図

東照宮付近

全体図、薄い和紙に描かれている

 先日、ヤフーオークションを見ていると、明治頃の弘前を描いた絵図が出ていた。かなり薄い和紙に描かれたもので、何か元本があり、それを写したもののようである。明治二年弘前絵図の写しは、少なくとも三枚、弘前図書館八木橋文庫にある明治38月のもの、弘前博物館にある明治4年7月のもの、その写しで弘前図書館にある同じく明治47月のものが確認されている。これら4枚の絵図を見ると、明治2年から4年までのわずか2年間であるが、記載内容が少しずつ異なっており、その違いから時代の変化を見ることができる。もちろんオリジナルの明治2年絵図が、最も丁寧に描かれており、その写しは描写は劣る。それでもほとんど空白がなく、その製作にはかなり期間がかかったと推測できる。

 今回、落札した絵図は、これらの明治2-4年の絵図に比べて明らかに年代的には後だと思われ、場合によっては昭和くらいまでいくのではないかと危惧したが、それでも弘前全体を示す絵図であることは間違いないので、頑張って落札しようと考えた。何とか落札できたので、その詳細について報告したい。

 

1.     大きさ、紙

 横114cm、縦136cmで、明治二年弘前絵図(150cm160cn)より少し小さく、右下部分が欠けている。また明治四年の絵図が136cm164cmなのでこれよりも小さいが、弘前の中心街のみを記入しているので、縮尺はそれほど変わらないかもしれないし、写しであれば、同尺で書き写すだろう。ただ道の形状や方向が違っており、写しではなく、新たに線を入れて制作した絵図かもしれない。全体的には装飾性は全くなく、また未記入の部分も多く、完成した絵図ではなく、制作途中あるいは、本絵のために下書きであるかもしれない。ただ毛筆で2mmほどの細かい名前を記入している技術は、絵図作りの専門家によると思われる。紙は和紙であるが、かなり薄く折り目は破れそうになっているので、早期の裏打ち、あるいはデジタル保存の必要がある。

 

2、制作年代

 制作年代の推測は大変、難しいが、今日一日ざっと見た印象から制作年代を推測する。まず大正、昭和になると、ほぼ手書きの地図は作られることはなく、あるとすれば絵図マニアに贋作を売るためであろう。江戸、大阪ならともかく、弘前の市街を描いた手書きの贋作の絵図をわざわざ作る意味はない。間違いなく明治時代の作品と思われる。

 手元にある明治二年弘前絵図と比べると、人名はほぼ一致するが、それでも新たな記載も多い。そうした記載から時代を推測していく。

 

1)     和徳堀越役所

松森町の南に“和徳 堀越 役所”の記載がある。小区や村ができ、そこに役所ができたのが明治11年以降なので、この絵図は明治11年より前ではなさそうである。最初は複数の村同士が一つの役所を共用していたが、明治22年に周囲の村を合併し、新たな和徳村、堀越村ができ、それぞれの役場ができるので、それ以前ということになる。

 

2)     旧和徳小学校、魚市場周辺

 明治二年弘前絵図では、このあたりは“御収納倉二ヶ所白米倉一ヶ所”、“廣小路と称す空地”その後ろは“和徳御収納蔵 東掛、北掛と区別し、倉八ヶ所 月々藩士へ米を渡す所”となっている。和徳大通りから空地の奥に収納蔵があり、藩士はここまで米を取りに来たのであろう。これが今度の絵図では空地は“東新丁”となり、“和徳御収納蔵”は“東長ヤ(屋)”となっている。弘前市立和徳尋常小学校が弘前藩の米倉を無償提供してもらい、それを校舎として開校したのが、明治72月であることから、この長屋があったのは、明治2年から明治7年までと思われるので、これによれば、絵図の制作年代は明治7年より前となる。

 またこの辺りに関してはかなり細かい記述が並び、東照宮の横には愛宕宮とあり“桃井作渡 神楽殿”とある。さらに和徳大通りを挟む道の向こうは明治二年弘前絵図では町人街なので無記名であるが、この地図ではカンコ、菓子、元ヤ、今井、大仁、大膳廣幸、野清関東屋吉田吉次郎、あるいは東新丁の横には間三九郎、大阪屋善四郎などの町人の名がある。

 


 

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