2021年6月16日水曜日

弘前城の火薬庫

 



 現在、急に思い立って、本を出版しようと文章を書いている。タイトルは、まだ未決定であるが“弘前歴史散歩”のようなものを考えている。観光客が弘前駅前からスタートし、代官町、土手町、上白銀町、弘前城、仲町などを散歩するコースで、現在ある建物、そこに昔あった建物、出来事など、明治二年弘前絵図とこのブログを参考に説明を加えている。あまり構成は考えず、思いつくまま書こうと思っている。今のところ35000字くらい書いたが、10万字くらい、写真を入れて200ページくらいの本を予定している。1、2年後をめどに出版を目指している。

 

 前川國男の代表的な作品である弘前市立博物館と弘前市民会館がある場所、さらに芝生の広場、駐車場、テニスコート含めて、追手門から入って左の広い敷地が陸軍第八師団の火薬庫であった。その前は何かと言うと弘前藩の焔硝蔵があった。江戸時代の戦のない時代にどの程度、火薬をここに置いたかわからないが、開城当初に落雷により天守閣にあった火薬庫が爆発し、天守閣が崩壊した記憶は鮮明にあり、かなり注意深い管理を行っただろう。今は、藤田記念庭園から市民会館に入る入り口があるが、この建物ができるまでは入り口は、追手門方向だけで、この区域は、西は断崖と柵があり、下から登る西門には見張所があり、厳重に監視していた。周りは板塀で囲まれ、入り口は下馬橋方向で、そこには腰掛屯所があった。南方向は堀と土塀に囲まれて、この一帯が周囲から隔離したところであった。実際の火薬量たるやそれほどでなく、人気のない寂れた区域であったと想像できる。

 

 明治31年に日本陸軍第8師団が創設されると、兵器廠や火薬庫が弘前城内にできることになった。その際、弘前藩の時代から火薬庫であった、この区域はそのまま第八師団の火薬庫となった。第八師団は青森、岩手、秋田三県を管轄する大きな師団であり、その弾薬庫もかなりの規模になったに違いない。戦艦三笠の爆沈事故のように乗務員によると思われる火薬庫放火の事件は結構多く、同様に陸軍の火薬庫への放火事故もあった。弘前の火薬庫は市内の真ん中にあるため、より厳重な警戒が必要とされ、どこかの段階では西門も閉鎖された。

 

 戦後、ここにあった大量の砲弾、弾丸などは突然、不必要となり、多くは海に捨てられた。そして市民の間で、この土地の活用方法が論議された。まずスポーツ設備を作ろうということで、テニスコート、相撲土俵、野球場などが作られた。野球場は、博物館の方向がホームベースで、今は芝生の広場になっているところが内野、外野となる。その後、弘前市民会館、博物館ができるにつれ、野球場、相撲土俵がなくなり、次第に今のような形となってきた。

 

 弘前市民会館ができたのが、昭和39年(1964)、すでに57年、博物館でも昭和51年(1976)だから45年経つ。いずれもかなり古く、もはや前川國男の代表的建築物として価値がある。今後ともうまく保存、活用していけば、あと50年後には文化財になる可能性もある。

 

 まあ、こうしたネタも含ませながら、話をつなげていくのだが、いろんな方向に話が飛び、読みにく本になっても困る。ディスカバーニッケイでの編集経験から、うまく編集者を使うことで、客観的、読者の視点で評価できるので、今回の出版は積極的に出版社の編集者を利用することにしたい。

 


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