2007年7月4日水曜日
笹森順造4
米山に推されて青山学院の院長になったが、教師、生徒間との摩擦も多く、志半ばで辞めることになった。戦後初の選挙では東奥義塾の教え子の応援を受けて、トップ当選を果たした。以後連続4期(8年間)、ついで参議院に連続3期(16年間)当選して、政治家の道を歩んだ。その間、片山内閣の国務大臣として入閣し、復員庁総裁や賠償庁長官などを勤めた。戦後の混乱したこの時期、復員とくにソビエトに強制移送された57万人の日本人の復員は難航を極めたが、粘り強く交渉した。また米国での生活や語学力を生かして、アメリカとの交渉に臨み、賠償請求権の放棄など、敗戦により苦しい状況の日本を助けた。
剣の達人で、クリスチャン、酒もタバコもやらず、勤勉で実直な笹森は、朝早くには官邸に出勤し、夜遅くまで仕事をこなした。官邸の玄関番が笹森のこの謹厳な生活態度にいたく感激して、自分の孫の名付け親になってほしいと頼んだというエピソードがある。政治家は議場で議論すべきだとして、酒席への招待も根回しも一切断わり、地元からの嘆願も嫌った。後の首相となる三木武夫とは日本協同党以来の大親友であった。三木武夫夫人は笹森のことを「真面目なひとで、いかにも古武士という感じでしたが、人に優しくて幅広い考え方を持っていた。話しても暗さがなかった」と話している。私は親類が徳島県に多く、三木の元秘書を知っているが、そのひとの三木評と非常に似ており、性格的には気があったのであろう。
昭和39年の東京オリンピックの時には、デモンストレーションとして日本武道も公開されたが、笹森も日本剣道界の代表としてこれに参加して、小野派一刀流の極意を披露した。その年にもらった勲一等瑞宝章より、日本武道館の完成とともに、笹森には名誉でうれしかったであろう。
笹森は明治19年生まれで、武士の時代はとうに過ぎていたが、幼いころの剣術修行、厳格なキリスト教教育、弘前の風土などから色濃く、その精神には武士道のスピリットが流れていた。最後の武士と呼べよう。
私の通っていた学校(六甲学院)の創立者は武宮隼人というバリバリのイエズス会の神父で、その頃、全校生徒に対する朝礼は場合によっては数時間にも及び、生徒が気分が悪くなりばたばたと倒れても、訓話をやめなかったというエピソードがある。非常に厳しいひとで、悪いことは悪い、少しの悪いことも許さないという姿勢で、生徒からは反発もあったようだが、生徒には打ち解けてなんでも話すことから慕われた。笹森の話を書きながら、ふと武宮校長のことを思い出した。
弘前人物志、青森20世紀の群像(東奥日報社,2000)および剣道塾長 笹森順造と東奥義塾(山本甲一著、島津書房、2003)を参考にした。
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