2007年7月14日土曜日

平和祈念像のモデル?


長崎平和公園のシンボルである平和祈念像のモデルについては、母方の親類間では奇妙な伝説がある。この像は、彫刻家で有名な北村西望先生が原爆犠牲者の冥福を祈り、1955年に建てられたものである。建設当時、日本ではプロレスが人気であったため、力道山をモデルにしたという説もあった。それくらいこの像のモデルは当時の日本人離れした顔、身体であったため、このような説も出たのであろう。
私のおじは、長谷川茂雄といい、もう20年くらい前に亡くなった。関東のどこかの生まれで、東京高等師範を卒業後の昭和4年に脇町中学に赴任した。どうして四国のこんな僻地に来たかというと、東京で好きなひとがいて、その人が病気療養のため松山に引っ越したため、出来るだけ近い赴任地ということで徳島県に来たようだ(そんなに近いとは思わないが)。大学時代ラグビーをやっていたため、脇町中学でもラグビーを指導し、脇中を何度も全国大会に出場させ、活躍した。四国に初めてラグビーを紹介したとして、地元脇町ではいまでもラグビー饅頭や脇町高校には「四国ラグビー発祥の地」と刻まれた記念碑があるほどである。
このおじさんは若い頃から長髪で、色黒で彫りが深く、子どもの頃みた記憶でも日本人離れして容姿であった。若い頃はさらにかっこよく、脇町に赴任当時は、町の若い女子はほとんど熱を上げ、憧れていたという。タイロン パワーのような感じである。当時、化粧品などの雑貨を扱っていた祖父が惚れ込み、娘のむことして拝み倒し、おばさんと結婚したようである。町の若い女子には相当嫉妬されたようである。
このおじさんがラグビーのチームを引き連れて国体(九州?)に出場した時に、北村先生から声を掛けられ、脇中の教え子で、スポーツ万能「セントウ」こと、吉田廣一さんと一緒に東京の北村先生の自宅を訪問した。セントウさんは脇町では当時知らないひとがいないくらい柔道、レスリングで活躍したひとで、その体は大きく、筋骨隆々としていたという。子どもの頃から背が高く、並ぶといつも先頭、スポーツをやらせば何でも先頭なのでこんなあだながついたようだ。
母方の伝説では、北村先生はおじさんの顔とセントウさんの体を合体させて平和祈念像を造ったという。かなり信憑性はあやしいが、最新のWikipediaでもセントウさんの紹介があり(前はなかったと思う)、徳島県、とりわけ脇町ではこの伝説はわりと信じられているようである。確かにおじさんを知っているひとからみれば祈念像の顔、特に髪型は長谷川のおじさんそのものである。
北村先生の家には座敷に風呂があり、おじさんは驚いたといっていたようで、これが事実なら信憑性もあるのでは。
ちなみにこのおじさんは、高校ラグビーなどで義務化されているヘッドキャップを発明した。脳震盪などの事故を防ぐため、ラグビーメーカのウシトラと協力して作ったようです。

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