2009年12月25日金曜日
もうひとつの「坂の上の雲」
有坂成章(ありさか なりあき)という人を知っているだろうか。日本陸軍の主要な歩兵銃として有名な38年式歩兵銃を作ったと言えばわかる人もいよう。元々は村田銃の後継として明治30年に開発された30年式歩兵銃の部品数を少なくして改良したのが、38年式歩兵銃で、太平洋戦争でも日本陸軍の主要歩兵銃として活躍した。
うちの親父も、38年式歩兵銃を評して、アメリカ軍が機関銃でがんがん打ってくるのに、日本の銃は一発ずつしか撃てない、これではアメリカには勝てないよと言っていた。司馬遼太郎も同様なことを言っており、日本陸軍は明治に使われた銃で近代化されたアメリカ軍と戦うはめになった、何と不幸かと。
兵藤二十八著「有坂銃」(光人社NF文庫)を読むと、こういった批判が的外れであるばかりでなく、日露戦争の真の勝因はこの30年式歩兵銃であり、これを開発した有坂成章に栄誉が与えられるとしている。
日本では、30年式、38年式歩兵銃とされるが、世界ではArisaka rifleと言われ、いまでも命中率が高いのでハンティング用に使われており、人気も高い。銃の特性とは、基本的には火縄銃から変わることはなく、発射速度が速いほど、遠くまで、まっすぐに飛ぶ。撃ちだされた弾丸は、ゆるやかな弧を描いて飛ぶが、その最も高い点が「最高弾道点」と呼ばれ、その弾道点が低いほどまっすぐに飛び、命中率の高い銃だといえる。これを達成するためには火薬量を増やせばよいが、そうすると銃本体がよほど頑丈な構造でなくてはいけず、重い銃となる。もうひとつの方法は弾丸の口径を小さくすることで、有坂銃は後者の方法をとった。というのは、日本人は体格が小さく、重い銃を持てないこと、反射時の反動に耐えられないこと、必要な携帯弾丸重量を軽くさせることなどが理由にあげられる。また弾丸が小さいとそれに使う金属、火薬の節約となるからである。こうして30年式歩兵銃の口径は、日露戦争当時でも小さい、6.5mmとなった。最高弾道点は射程距離500mで1.20m、ロシアの1891年式歩兵銃が1.45m、ドイツの最新式1898年式ライフルが1.5mと同時代の銃に比べて最も命中率が高い。
日露戦争当時、日本陸軍の野砲の性能はロシアに負けていたし、常に砲弾も不足していたが、こと小銃に関してはロシアに性能的に勝っていたし、弾丸製作も簡単なため十分量の予備があった。彼我の野戦軍が3000m以上離れた時はロシア軍が大砲性能で有利であったが、逆に距離400m以内になると俄然有坂銃の性能により日本軍が有利になった。そしてこれが日本軍の勝利をもたらした。余談だが最新のアメリカのM16においても5.56mmという小口径銃弾が使わている。
なおボルトアクション式(一発ずつレバーを引いて玉ごめする)有坂銃は太平洋戦争まで使われたが、このタイプの銃は何も日本だけではなく、アメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連でも使われており、完全に自動小銃化できたのは太平洋戦争中期以降のアメリカ軍のみであった。全歩兵の自動小銃化をするためには、銃製造、銃弾製造ともに大規模な生産体制が必要であり、当時これが可能であったのがアメリカだけであり、日本ではとても無理であった。また数撃ちゃ当たるという発想も日本軍にはなじめず、命中率からすれば自動小銃化は不必要と判断されたし、当時の主要作戦地は中国、ソビエトの平地部を想定しており、まさか南国のジャングルで戦うとは想定していなかった。
日露戦争の銃および砲のほとんどの開発を天才有坂ただ一人に任せられた点でも明治の近代化と日露戦争の勝利がじつに綱渡り的なものであったことがわかる。若くても優秀なやつに仕事をバンと任せる明治の指導者の太っ腹さと、その責務を全うした有坂の姿もひとつの坂の上の雲でなかろうか。
*youtubeで「arisaka」で検索すると、アメリカでは普通に子供が銃をおもちゃがわりに撃っている。これを見るともともと好戦的な人種かと思ってしまう。弘前市在住の漫画家 山井教雄さんの近著「まんが現代史 アメリカが戦争をやめない理由」(講談社現代新書)も、狂ったアメリカ社会を痛烈に風刺している。
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