2010年10月12日火曜日

弘前城 2




 いよいよ本丸に入る。下乗橋から入ると、左手に見張所があり、その奥に腰掛所がある。この腰掛所というのは別の所では腰掛屯所となっているが、登城する主人を待つ供侍の控所という解釈もあるが、ここでは門に伴い設けられている番所の詰所であろう。右に折れると中門があり、すぐ左にはまたもや見張があり、厳重である。というのは本丸玄関左に御金蔵があるからである。右には天守があり、堀に沿って腰掛屯所、見張所、井戸、陸尺詰所(ろくしゃく)が並んでいる。陸尺とは駕篭や輿を担ぐ人夫をさすようだが、城内の掃除、賄いなどの雑用を行う人たちがいたのであろう。

 本丸の形が実際とは全く違うのに気づくであろう。本来、本丸は北南に長い長方形だが、地図では東西に長い長方形になっている。これは本丸御殿の大奥に当たる部分が削除されているため、御殿自体が横に長い長方形になっているからである。藩主夫人が住む奥については、一般の人が知る必要がないことなのでわざと削除したものと思われ、それを省いてしまうと、何となく本丸そのものも東西に長い長方形になったのであろう。

 玄関を入ると、広間があり、その右には御従目付の部屋が、奥には祐筆の部屋、䑓子の間(茶室)、さらに奥には中之口、御目付の部屋が続く。広間左奥には大目付、御用人、御家老などの重役の部屋が、その奥には御坊主方、奥詰席などがあり、一番奥が台所となる。

 玄関から左にずっと行くと、表御座敷、同下ノ間、御小院、浪之間、山吹ノ間、さらに行くと、芙蓉の間、竹の間、菊の間、四季の間、松の間、西湖の間といった旅館のような部屋が続く。おそらく襖絵に由来した部屋名であろう。左の一番奥には御武芸所と殿様が日頃いた御常殿があった。

 西湖の間の奥は、中奥、御座敷、御広敷となり、本来はこの奥に夫人、側室、女官が住む大奥があるが、地図では砂ノ小庭があるだけで削除されている。この庭の横には御三階御物見があり、三層の物見櫓があった。通常、天守のことを御三階物見というが、ここでは天守と対角にあるこの櫓を御三階物見としており、少し大きな櫓であったのであろう。この櫓の下の二の丸に、神武遥拝所の名があるが、名前から見ても明らかに明治以降のものであろう。二の丸のここらには鉄砲場、矢場、武具、武器庫が並び、それを管理する役所があった。

 本丸に戻ると、竹の間、芙蓉の間の前庭には御舞台と楽屋があり、ここで能などが演じられたのであろう。楽屋の裏には見張所が、横には藩の文書を収めた御日記舎があった。

 本丸から北の郭へ抜ける門は、不通門となっており、普段はおそらく閉じられ、本丸への入口は中門のみに限られていたのであろうか。また二の丸、武器庫の所には埋門という変わった名が見えるが、非常口で戦の場合は文字通り埋められた。

 「津軽ひろさき・おべさま年表」(弘前観光コンベンション協会発行)の最後の見返しに「弘前舊城本丸建物之圖」という詳しい本丸御殿の図が載っている。配置は大体似通っているが、細部は異なる。西湖の間や松の間は本丸御殿の図には載っておらず、四季の間の配置も違う。また能舞台や御日記舎の配置も幾分違う。「弘前舊城本丸建物之圖」と明治2年地図では、時代が違うことで部屋の配置も違っているのかもしれないが、むしろ明治2年地図は記憶に頼って描いているうちに方向がわからなくなったのであろう。廊下も庭もなく、あの部屋の隣にはあの部屋があるといった感じで描いていったのであろう。玄関入って、右奥には便所の名が見えるが、屋内の大きな便所はここくらいなので印象に残っていたのであろう。

 前回は三の丸の亀甲門あたりを省略したので、ここで追加する。亀甲門を入った北ノ丸には、木材や縄、藁など雑多なものを扱う作業所が集中している。まっすぐに行くと左の門があり、ここが作業方で縄、材木などを扱う作業所と役所があった。面白いのは兼平石入所というところで、岩木高舘山で産出される安山岩の独特な平らな岩、兼平石を扱っていたのであろう。また鳶、消防、畳、鍛冶などの職人もここにいたようだ。さらに赤丸で角力場があり、職人達がここで相撲をとったのであろう。亀甲門からまっすぐ行くと、右手には御鷹部屋、鷹掛席、餌差席などの建物があり、鷹匠がここで訓練していたのであろう。作業方の左の城外のは、亀甲御収納とあり、ここに籾蔵2ヶ所となっており、唯一城外のここに米貯蔵倉庫があったのであろう。

*将来的には、この地図もデジタル化して、それを収めたCD付きの本をだそうかと思っている。それで先日知人の写真屋さんに聞くと、きちんとデジタル化するには大掛かりな装置がいるとのことであった。レールのようなものを組んで、カメラを上下左右に動かして撮影するようで、費用もかかりそうである。少数部出版であれば、適当に自分で撮ってもいいかと考えている。

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