2010年5月31日月曜日

早道稽古所および蓬莱橋(明治2年弘前地図)




 弘前2年地図を見ているとおもしろいものを発見する。茂森の長勝寺の左側、今の樹木町にあたる付近の解説に「この林を石森早道稽古所と称し、方二町全林の内に沼あるいは岩石多くあり。明治三年まで役位早道の者(小隼人目付という)年々日を期してこの地に於いて三寸草隠し、あるいは岩石隠し等の術を稽古する場なり」と記されている。

 早道の者(はやのみちのもの)はいわゆる忍者のことで、4代藩主信政が甲賀の忍びのもの中川小隼人を200石で召し抱えたが、この忍びの集団を「小隼人目付」あるいは「小隼人組」と呼び、20名が定員で、身分は御目見以上の世襲であったようだ。1674年に創設され、一旦廃止されたが、1761年から1870年まで続いたようだ。いまでは全く想像もできないが、情報収集の目的でこれだけ多くの忍びを抱え、訓練していたようだ。

 この稽古所の隣には天星場(間違い大星場)という砲術の訓練所もあった。解説には「天星場と称す。嘉永七年(1854)八月落成。工事人夫9854人任用す。砲口より大?までの距離5町50間(630m)横幅60間(110m) (的のところの大きさは)高さ13間(24m)横100間(180m) 」という大規模なものであった。主として大砲の訓練をここで行っていたのであろう。大きな土塁のようなものをこしらえ、そこめがけて大砲をぶっぱなしたのであろう。壊すのも大変だろうから、今でも樹木付近に痕跡は残っているのだろうか(現在のりんご公園内のすり鉢山のこと)。

 さらにこの天星場の隣には「明治3年に清野房二郎?(文字不明)英式操練営所連棟?の地」という所がある。文字がかすんで読めないが、おそらく行進や体操のようなものをここで行っていたのであろう。他にもあちこちに鉄砲を打つ練習場があり、幕末から明治にかけ、津軽藩も懸命に軍事的な訓練を行っていた。こうして見ると津軽藩という決して大藩でなくても、藩の独立を守るため、軍事にかなり予算をさいていたのがわかる。ただこういった軍事的施設も明治政府の中央集権化が進むとあっという間に消滅した。またこの操練所の近くに弘前招魂社があるが、これは函館戦争などでなくなった人々を祀ったもので、その後弘前公園内の護国神社に移った。割合早い時期から明治政府の指示に従って作ったのであろう。

 もうひとつおもしろいのは、今の土手町の蓬莱橋のたもとの札制の文字が見える。制札、つまり高札のことで、よく時代劇でお上の命令を書いた札を書いたものが繁華街に掲示されるが、あれである。当時から土手町は繁華街で多くの人が集まったところなので、こういった高札を掲示するには一番いいところだったのであろう。また蓬莱橋の左手には線香水車の文字ながみえる。仏壇のお線香や蚊取り線香は、水車で杉の葉を搗いて作る。こんなところにで、線香を作っていたと思うとおもしろい。

 地図には載せていないが、茶畑町の近くに御吉兆場というところがある。これも何かわからず、インターネットで調べると鶉(うずら)は、その鳴き声が ”ゴキッチョー(御吉兆)” と聞えることから武将が好んで飼っていたと言われ、津軽の殿様も愛玩用にここでうずらを飼育していたのであろう。

 昨日も図書館で明治2年地図の作成の経緯を調べてみた。津軽近世資料4 弘前藩記事(坂本寿夫編、北方新社)をざっと読むと、明治2年という時期は、武士社会が消滅し、武士の家禄などの恩典が一切失われる移行期であり、行政側としてはしばらく生活するまでの扶持米などの支給、帰田法の施行や、また江戸藩邸からの新たな引き揚げ者などの世話のために、武士の現住所の確認が必要であった。そのため支配地の人口、家族数、一門、給料などを正確に把握する必要があった。今と違い、各家には表札はなく、誰がどこに住んでいるかを行政側として知っておく必要があることから、本図の製作がなされたのではあるまいか。江戸切絵図のような一般の庶民、武士のために版元から出版されたのではなく、あくまで行政側の必要性から作られたものであったと推測される。そのため明治中央集権が確立してしまえば、それほど地図の必要性もなくなり、せっかく作ったのであるから、明治7年くらいまでの事柄を記述したものと思われる。江戸期の津軽藩の絵図の中には高位の家臣の住所を記載したものはあるが、これほど詳細に藩士の住所を記載したものはないのは、こういった明治初期の事情によるものだろう。おそらく藩の上位行政官、参事クラスの人物の手元にあったものが流れ着いたのであろう。通常、藩による地図の作成は絵図係のようなものが担当し、正副の2枚を作成したようだが、この地図は行政上のやむえない理由で作成されたため、この一枚と明治4年の写しの2枚のみが作成された可能性が高い。

2010年5月27日木曜日

妻と家族のみが知る宰相




 「妻と家族のみが知る宰相」(保坂正康著、 毎日新聞社)を読む。犬養毅、東条英機、鈴木貫太郎、吉田茂の妻、家族を通じて、昭和を代表する4人の首相の実態にせまった著書である。保坂さんの作品は好きで、ほとんど読んでいるが、昭和史をできるだけ多方面から見直し、その実像を解明しようという態度には敬服する。

 この著書で取り上げられた首相のうち、とりわけ感動を覚えたのは鈴木貫太郎の臨終の場面である。妻タカの語る鈴木貫太郎の臨終の模様を保坂さんの本から引用する。「亡くなるとき、荒く、大きかった呼吸がだんだん静かに、小さくなって行きましたが、このとき室内に、30人ぐらいの家人や親しい方がいて、病床を取り巻いていました。私は背を撫でていましたが、その人々が一人一人手をにぎり、お別れして下さいました。そのとき誰の口からともなく、観音経の偈が唱えられました。 念彼観音力 衆怨悉退散 30何人の人が、一人残らず、念彼観音力と唱和しました。庭にも農事研究会の人たちはじめ、たくさんの方がいらっしゃいましたが、この方たちも、一緒に読経に唱和されて、いいようもない荘厳な死を迎えたのでございます。」
これほど感動的な死の迎え方もない。鈴木貫太郎は、日露戦争、5.15事件、戦後の襲撃事件と何度も死ぬ目にあいながらも生き抜き、明確な死生観、自らの務めを懸命に果たすことを貫いた。父母に対する孝心、天皇に対する深い敬愛はこの人の素朴な日本人としての資質であり、海軍大将、首相になっても、その態度は変わらなかった。 

 高齢にも関わらず、昭和天皇から直接「鈴木頼んだよ」と日本の最も困難な時期に首相を引き受けた。鈴木にとっては、死はとるに足らないものであったが、その責務の重要性、昭和天皇の真意を知っていただけに、よほど覚悟がいったのであろう。一方。昭和天皇にとっても牧野伸顕のいない宮廷では最も頼りになる存在が鈴木であったのであろう。

 妻タカは昭和天皇が4歳から15歳までの養育係であり、また鈴木本人も昭和初期に侍従長をしており、天皇も鈴木の性格は熟知し、なお信頼しており、終戦という幕引きを成し遂げるのは鈴木しかいないと思ったのであろう。
このブログでもたびたび登場する弘前出身の珍田捨巳も高齢にも関わらず、最後の奉仕として昭和天皇の侍従長としてつかえ、即位の礼を全うして死ぬ。そしてその後任として鈴木を侍従長に使命した。もし珍田が鈴木を使命していなかったら、昭和天皇も鈴木を深く知ることはなく、終戦時の首相に使命しなかった可能性もある。運命的である。また終戦時の侍従長藤田尚徳は津軽藩士藤田潜の息子であり、これもまた運命的な巡り合わせであった。さらに言うと、保坂さんの取り上げた他の3名の宰相のうち、犬養は山田純三郎と孫文を通じて関係が深く、吉田茂は珍田の駐英大使時代の部下であり、天津領事の時は山田純三郎とも懇意であった。こういったことで弘前出身者とも関係は深い。

 話を戻すと、鈴木貫太郎のように何度も死線を超え、それも一歩間違えると殺害というむごたらしい死に目に会いながら、最後には前述したようなみごとな臨終を迎えることができたのは、鈴木に対する神のよくやったという褒美かもしれない。保坂さんは吉田茂の晩節の権力欲を嘆いているが、確かに鈴木にように自分の使命を果たすとさっさと権力を捨て農民になった潔い生き方に比べると、吉田の晩節はその業績の大きさを知るだけに悔やまれる。

 Wikepediaでは鈴木貫太郎の妻、足立タカについては昭和天皇にキリスト教を感化した人物のように書かれているが、明治期のキリスト教徒、例えば珍田捨巳、山田純三郎、本多庸一らを見ても、彼らは戦後のキリスト教徒のイメージとは異なり、むしろ武士的行動規範を根強く残しており、天皇に対する尊王の気持ちは非常に強い。鈴木貫太郎においてもお盆には帰ってくる先祖をお迎えするために紋付袴に着替えて門前で頭を下げたという(P184)。当然妻のタカも行動を共にしたのであろうが、それは素朴な庶民としての信仰態度であり、キリスト教徒は異教のことは無視するといった偏狭な気持ちは一切ない。最近では天皇家に対するキリスト教の浸透を大げさにさわぐ著述も目につくが、ことに昭和天皇は優れた識見をもつひとであり、珍田、鈴木あるいはその妻タカのような純朴な人格を愛したのであり、あくまで人物に感化されても信仰自体には厳然と一線を画していた。

2010年5月26日水曜日

ジョッパルを「つがる芸術村」に構想



 以前のブログで、弘前駅前のジョッパル空きビルについて私見を述べた。弘前を活気のある街にするためには、大学誘致、芸術学部の誘致を提唱した。その後、さまざまな意見を頂戴した。すでに多くの自治体で地域の活性化のために大学誘致を積極的に取り上げ、努力している。土地、建物、税制上の優遇をしても、少子化の現在ではなかなか大学も地方への進出には消極的で、時間もかかるし、競合も多くて、実現はきわめて難しいとのことであった。

 この前の月曜日に、新市長の話から弘前市の活性化のためには観光がキイとなることを聞いたが、そうなると駅前の整備は欠くことができない問題であり、駅前の一等地に空きビルが存在するようでは困る。建物は使う人がいないと急速に老朽化するため、ジョッパルの処理が急がれる。

 商業ビルへの活用は、ジョッパルの倒産が示すように、郊外型の商圏が確立した現状では、難しい。やはり公共施設として活用し、それの波及効果による周辺地域の活性が望まれる。

 芸術学部の誘致には時間がかかり、難しいのであれば、芸術村の構想はどうであろうか。弘前には弘前交響楽団、弘前オペラなどを含む27団体の音楽サークルがある。また演劇には弘前芸場、劇団雪国始め4つの劇団が、バレエではアカネバレエはじめ3つの団体があり、その他絵画、書道などの芸術関係の団体や各種のカルチャースクールが数多くある。これらの団体をこのジョッパルに集約的に集めて、ここを芸術村にする構想である。

 現在、各団体は練習場に困り、遠方のかなり不便なところで練習しているのが現状であろう。特に音楽関係は音の問題もあり、夜間の練習の場が限られる。その点、ジャッパルの地下は広く、音の問題は完全にシャットアウトできる。また4階には舞台もあるため、演劇団体にも十分活用できる。いずれにしても冬の長い弘前では、広くて暖かな空間が必要であろう。さらに周辺から部員が集まるため、広い駐車場あるいはバス、電車などのアクセスのいいところがよいであろう。こういった点ではジョッパルの建物、立地は条件に恵まれている。空間があれば、施設自体はそれほど豪華にする必要はなく、今の建物を比較的安く改装することができる。また公共機関であることで、著名な芸術家を招聘することが容易になり、それが内外からの人が集まることにつながる。例えば、現代美術を代表する弘前出身の奈良美智さんを招き、ワークショップを開く場合でも、個人でお願いしてもなかなか難しいが、「つがる芸術村」からの依頼であれば、それほど難しくはないし、県外からの参加者も見込まれる。多くの津軽出身の芸術家の活用も期待できる。またコーラスグループや音楽グループなどは近くにある駅前遊歩道の野外舞台で演奏するのも、うれしい。現在、あまりにぎやかでない駅前遊歩道の活用手段としても生かせる。

 青森市にある国際芸術センターのようなものは全く必要ない。安藤忠雄に設計してもらい、海外の芸術家を招き、美術運動の拠点とするのは結構であるが、全く市民の文化活動とは遊離している。私も含めて青森県民で国際芸術センターに行ったことのあるひとはどれほどいようか。いわゆるかっこうはいいけれど、普通の人が簡単には使いにくい施設である。金沢市の金沢市民芸術村のような、あるいはもっと気楽なものであってもよい。アメリカのポートランドにはパイオニア・コートハウス・スクウェアという広場があり、一時資金難から計画が頓挫しかけたが、市民から75万ドルの寄付を求め、寄付者の名前をレンガに入れて広場に敷くというアイデアで実現された。こういった芸術村においても市民に寄付を求め、それに国、県、市、企業がバックアップすることが、より市民に開かれた愛着のある施設となる。

 市民が多く集まるところに、活気が生まれ、それが観光に誘致にもつながるのではなかろうか。駅前、新幹線、それなら土産物屋、観光館という単純な発想では、人は集まらない。こういった観点から「つがる芸術村」では、内部を完全に開放し、例えば盛岡市のアイーナーのように部屋をガラス張りにするという方法もあろうが、観光客、市民も自由に、交響楽団、演劇の練習を見れるようにすることで、新たな観光名所になりうる可能性もある。さらには駅前にこういった文化設備を構えることが、弘前市の文化都市としての対外的なシンボルとなる。

 実際には、金の問題が一番大きな障害になろうし、これほど多くの各種団体がまとまるのも難しいことであろう。さらには本来、こういった施設はトップダウン的に市から提示されるものではなく、ボトムアップ的に市民から提唱されるべきものであるが、そういった機運もなかなか作りにくい。また根強く残る、つがるの足ひっぱり風潮も、言葉通りに実現への足ひっぱりになろう。

 新幹線の開業が間近に迫った時期、ジョッパルの扱いは、火急の案件であり、新しい市長にとっては就任早々その実力が問われる機会である。

上の写真は青森市郊外にある国際芸術センター、下は市民の寄付により作られたポートランドのパイオニア・コートハウス・スクウェア広場。

2010年5月23日日曜日

第26回東北矯正歯科学会



 本日、第26回東北矯正歯科学会から帰って来た。今回は、岩手県盛岡市のアイーナというところで開催された。えらくモダンな建物で、3階、4階は岩手県立図書館で、少し時間があったため内をのぞいたが、インテリア、蔵書とも申し分なく、うらやましく思った。

 さて今回の学会テーマは「筋の機能を生かした矯正治療」ということで、呼吸、咀嚼、舌の機能と咬合、顎発育との関連を多方面から捉えた発表が集約され、久しぶりにいい学会であった。
5月22日の教育講演では奥羽大学の氷室教授から機能的矯正装置と脳活動の関連などを示す最新の研究結果が報告された。当院でも用いているツインブロックと呼ばれる下あごの促進を行う機能的矯正装置と脳活動、口唇の動き、皮膚のテンションなどの関連を示された。Moss博士のFunctional matrix theoryという有名な理論があり、機能が形態に影響するというものがある。その理論のひとつとして上あご、下あごは周囲の筋肉、皮膚などの機能に成長発育が影響されており、周囲筋活動、皮膚の緊張などにより顎骨の発育が変化するというもので、多くの動物実験ではその理論は証明されている。ただ臨床では、なかなか確実には証明できず、安定した効果的な活用ができないのが欠点である。

 学会2日目には石野由美子先生による「表情筋訓練を取り入れたMFT-モデルスマイルエクササイズ」という講演があった。主として舌、口唇の最新のトレーニング法が紹介された。MFT、主として舌の機能訓練法は随分前から行われていたが、訓練法が複雑な割に効果が少なく、最近では私も積極的にはしていない。今回の石野先生の方法は、例えば歯を矯正治療で後退し、理論的は口唇をそれに伴って後退すべきだが、それほど下がらない場合があり、こういった症例ではトレーニングにより美しい口唇を作ることが可能なようで、是非今後は試してみたい。患者さんは美しい歯並びではなく、美しい笑顔を求めるのであり、こうしたトレーニングは治療の一環として進めるべきものと感じた。

 愛媛のきむ矯正歯科クリニックの金俊煕先生は「乳幼児期の食生活が及ぼす咀嚼機能の発達障害とそのキャッチアップ」というテーマで講演された。金先生は大学の後輩で、個人的には非常によく知った先生だが、0歳の口唇口蓋裂児の患者さんが200名以上いるというのは驚いた。内容的には大学時代、伊藤学而先生ともよく話し合ったものであるが、実際0歳という患者は私も見たことがなく、臨床を通じてより具体的な指導法になっており、全国の保健関係の人にも聞いてほしい内容であった。数年前、私も金先生が開業医でありながら、大学の形成外科と協力して、口唇口蓋裂児の0歳からの管理を実践しているのを聞き、やってみようかとも思った。ただ0歳児から印象をとり、ホッツ床を入れるのは、なかなか難しく、リスクも伴う。なによりも開業医の立場でこれだけ長期に管理するのは経営的、精神的にも大変であり、本来は大学病院で行うべきかと考え、結局は断念し、今に至っている。金先生の努力には敬服するとともに、これだけ実際の乳幼児期の患者をみている矯正の先生も日本ではいないと思われ、今後の研究に期待したい。

 学会最後の講演は東京の近藤悦子先生の「舌、口腔周囲筋、咀嚼筋および頸部筋活動の正常化と鼻呼吸の確率がKey Factor」という内容をそのまま現した講演であった。過去、2度ほど先生の講演を聞き、ガムを用いた舌機能訓練法は私も臨床に取り入れているが、今回より詳細な訓練法が呈示いただき参考になった。矯正治療では、治療後の後戻りという宿命的な問題があり、その解決法として保定装置を一生続けるとうばかげた方法が一般的である。一生使うというのは現実的には不可能なことで、これは後戻りの責任を患者さんの責任に転嫁しているといわれても仕方がない。口腔周囲組織機能の正常化、とりわけ鼻できちんと呼吸できる状態にもっていくのが、後戻りを防ぐ唯一な方法であることを、長期症例を用いて説明いただいた。近藤先生の若々しいパワーに、こちらの方も力を得た気分になった。きれいな歯並びを作ることは、美しい笑顔をつくるだけでなく、口腔、鼻機能の正常化を促し、健康で活動的な患者さんの人生を作ることにも寄与できること改めて教えられ、大きな刺激となった。

 機能の問題は我々矯正歯科医にとっては、重要なものであるが、一方、矯正装置による歯の移動とは違い、研究も臨床も扱いが非常に難しい側面をもち、つい忙しい日常臨床では軽視される傾向がある。矯正治療は形態と機能の正常化を通じて患者さんの幸福、満足を追求する学問であり、医療である。矯正の本場であるアメリカではドライに割り切り、矯正医は形態の改善にのみ責任を持ち、それに対する報酬を得るということであるが、形態を治すだけでいいのかという真摯な臨床態度が今回の発表者の共通した想いである。

2010年5月17日月曜日

旧福島醸造変電所



 桜の季節も終わりました。弘前公園の桜もすばらしいのですが、隠れた桜の名所として毎年行くところを紹介します。弘前大学裏の富士見町にある吉野緑地で、10年以上前ですが、散歩途中でここを発見しました。

 弘前大学の職員や近所のひとにはよく知られたところですが、何の建物かはわかったいないひとも多いようです。

 大きな庭には、古いレンガの小屋があり、あたかもイギリスの農家をイメージさせますが、この小屋が実は変電所なのです。どうりで庭には建物があった形跡がありません。

 明治29年に福島藤助というひとりの若者が酒造りを志しました。幾多の困難の末、一年中酒造りができる製法を完成させ、「吉野桜」という酒を販売し、全国的に有名になりました。一時は一万四千石という大量生産を行い、そのため今住吉町にあるようなレンガ倉庫を10棟も建て、工場機械のために自前の発電所、変電所をもったようです。東北でも一位であったようです。水力発電所は相馬に、そこからこの富士見町で交流—直流の変電を行い、工場に供給していたようです。

 自分が死んでも、りっぱなものを建てれば、後世に残ると考えたようです。この変電所も大正13年もでき、正式には旧福島醸造所変電所というようです。他の倉庫とれんがの種類が同じなのは、よそかられんがをもってきたのではなく、わざわざ自前のれんが工場を建て、そこで作ったれんがを使って倉庫に使ったからです。

 私有地のため、中には入られませんが、外からでも十分に桜の美しさは楽しめます。近くに住んでいないひとにはわかりにくい所にありますが、一度訪れてみてください。

 写真は桜のちり頃の吉野緑地です。もうひとつは夕暮れ時の住吉町のれんが倉庫です。写真は全体的に暗くしてれんがの質感を高めてみました。

兼松石居 3



 縁は縁を呼ぶというのか、偶然にも本日、兼松石居の子孫の方の奥様とお会いし、お話しすることができた。ここしばらく石居関連のことが続く。全くそれまでは知識のなかった人物であるが、こうも縁が続くと次第に親しみがわいてくるから不思議である。

 森林助著「兼松石居先生伝」の系譜によれば、兼松石居には3男2女がいた。長男艮(トドム)は成田氏から妻をもらうが、早く亡くなり、その子も早世する。後に梨田氏より後妻をもらい、その子が後に陸軍少将兼松成器(なりき)となる。
長女しほは兼松本家(石居兄、兼松久通)の長男穀(ヤゴロ)の妻となるが、子がないまま、夫が亡くなり、寡婦となる。
次男直(ナホキ)は桐淵竹右エ門の家に養子となる(その子は貞節サダヨ)。
三男郎(イツラ)は石居本家を継ぎ、次女りかは長尾介一郎の妻となる。
ここからが複雑で、穀には子がなかったため、郎が本家の4女みよと結婚して養子になり、郎の姉であるしほは、同時に母となる。郎は5人の子供をもうけ、その子孫が現在久留米に在住している。

 今回、お会いしたのは、石居長男艮の子成器の長男成一氏の奥様である。現在、奥様は沼津市に在住しているが、成一氏は残念なことに先頃亡くなった。成一氏は会社務めが長かったが、退職後は先祖の石居関連の研究をなされ、何度も東奥義塾や弘前市立図書館を訪ね、あるいは親類である長尾家の日記などを晩年まで研究されていたようである。その研究の一部は弘前大学の研究者などにより活用されている。

 奥様も青山学院出身であることから、今もって本多庸一、笹森順造などの研究もされており、また最近ではコンピューターもなされるようで、本当にお元気である。奥様の話では、義理の父である成器は早くに予備役となり、その後は会社などをして長寿を全うしたようだが、石居関連の資料も軍人で転勤が多く、ほとんどなかったようである。その当たりの経緯は、松木明、松木明知著「続津軽の文化誌」の「兼松石居の津軽方言考そのほか」にくわしく書かれている。奥様も記憶されており、松木明先生に何の資料もお渡しできなかったことを恐縮していた。成器は昭和11年に予備役になったが、この人事にはおそらく2.26事件も関係していたのであろう。当時勤務していた豊橋陸軍教導学校には事件関係者がおり、また青森県出身者も何名かもこの事件に関連している。成器の長男成一氏も技術将校として太平洋戦争時には中国戦線、ニューギニア戦線に行ったようだが、親が将軍ということでかえって軍ではいじめられたりもしたようだ。それにしてもインパールと並び悲惨なニューギニア戦線をよくも生き残った。

 奥様のお話では、兼松しほは東奥義塾、函館の遺愛女学校などで英語を学び、その後、ひとりで上京し、津軽の殿様のお嬢さんの家庭教師、あるいは学習院?に先生として勤務し、明治19年ころに亡くなったようである。前回、しほは攻玉社あるいは普連土女学校に勤務したのではと書いたが、間違いのようである。一方、しほの弟である郎は大正のころまで弘前にいたようである。またしほの義理の姉(久通の次女)屋佐は、矢田堀景蔵の後妻となったことを指摘された。矢田堀はどっかで聞いたことがある名前と思っていたが、長崎海軍伝習所の勝海舟とならぶ総監で、江戸幕府最後の海軍総裁の矢田堀鴻のことである。前のブログで山澄直清や藤田潜のことを書いたが、こういった関係もあった。(ちなみに山田純三郎とも関連のある支那派遣軍総司令官岡村寧次大将の妻は黒石の加藤宇兵衛の娘である)。

 それぞれ沼津と久留米にいる兼松の子孫は、それこそ石居から数えて100年以上たって初めて親戚であることが判明し、今では交流があるようになった。森鴎外の「渋江抽斎」は今もってその続編が継続中であり、その子孫は小説と同じように明治、大正、昭和、平成の時代を懸命に生きた。そういった意味では奥が深い名著である。

 このブログがさらなる兼松家の縁の架け橋になってほしいと思い、あえて人名を載せた。3代以上前になると縁故はほとんどわからなくなるが、関係者がいれば連絡してほしい。

写真は矢田堀鴻である。

2010年5月6日木曜日

シグマDP2S 弘前桜祭り



 シグマdp2を買ってほぼ1か月くらい経ちますが、10G分、400-500枚くらい撮ったでしょうか。相変わらず、フリースはしょっちゅうおこります。それも愛嬌のうち、スポーツ撮影のような瞬時を切り取る際であれば相当腹が立つでしょうか、風景写真では気楽なものです。

 RAWで撮って、現像してJpegで保存というやり方も大分慣れてきましたが、RAWデータはどうするんだということで、結局はSDカードは消去しないでそのまま撮影した場所をマジックで書いて保存しています。SDカードも安いので昔のネガフィルムの感覚です。

 RAWデータを現像すると、それは立体感のある、こんな風景ではなかったという写真が出てきますが、ちょっと人工的な感じがします。空はあくまで青く、水は透き通って、現実の風景ではありません。そういった意味では記録としての風景より芸術としての風景となるため、季節感や時間がわからなくなります。Sigma Photo Proで大体現像しています。まずオートで現像して、それを細かく調節していきます。このオートの段階での色調が、前にいった東洋現像所風のものになります。昔の日本映画、昭和30,40年くらいの、あの画質です。いかにも総天然色といった感じです。この味付けがいやなひともいると思います。

 レンズフード、レンズ保護フィルター、予備バッテリー、ストロボを買い、ファインダーも欲しいのですが、ここまで買うと金額的に一眼と変わらなくなるため、残念。それでも少しずつコンデジから中デジ(コンパクトでない)に変貌してきています。

 買った目的は、母親が絵を書くため、弘前の桜を撮ってほしいという要望に沿うことでした。5月2日は昼からお城に出かけるもあまりの人手にいい写真撮れず、5月3日の早朝に出かけてようやく何とかなりました。9時からは金木の芦野公園にも行ってきましたが、自衛隊のT2練習機、演歌ショー、ストーブ列車などに興味が引かれ、肝心の桜の写真はほとんどありません。

 夜からは写真データをすべて現像して、総数200枚をどうやって母親に送るか悩みました。当然、母はコンピュータという便利なものはもっていません。韓ドラ用のDVDレコーダーを持っているのでこれで何とか見れるのではと考えました。まずjpegデータにしてDVDに焼き込むも、全くDVDレコーダでは読み取れません。であればスライドショーにして動画としてDVDに焼き込めればと考え、iMovieというものを初めて使いました。iTuneからアルゼンチンタンゴをバックミュージックに作ってみましたが。30分くらいで簡単にできます。タイトルも入れ、ばっちりです。一応、パナソニックのDVDに入れ、試写してみます。OKです。ふと母親のところのDVDレコーダーはシャープであることを思い出し、2階のもう一台のシャープのDVDレコーダーで試してみると、30秒早送りにしないと先に進みません。

 結局は、すべてプリントにして送りました。それにしても弘前公園の桜というのは風景としてはきれいですが、画材となるとすべて桜のピンクで占められ、絵を画くには難しい風景です。あまりに美しすぎる風景は、絵にすると何だか絵はがきみたいになり、おもしろくありません。

 上のような写真はまるで絵はがきです。下の写真のように、ちょっと人が入ると絵になります。

 DP2のよる夜間撮影は相当厳しく、夜桜にも挑戦しましたが、感度を800以上にすると像が荒くなります。また外付けストロボも内蔵よりはましではありますが、ほとんど使えず、またシャッター速度も1/30以下となると、ファインダーにおでこをつけての固定ができず、手ぶれをおこします。完全に昼用のカメラと考えた方がよいかもしれません。

2010年5月5日水曜日

柏原長繁と藤田潜兄弟



 前回、柏原櫟蔵、山澄吉蔵についてふれ、郡司成忠らの千島探検に関連したと書いた。休日のため、弘前市立図書館に行き、調べた。

 「北の水路誌 千島列島と柏原長楽」(外崎克久著 清水弘文堂 1990)にくわしく書かれていたので、引用する。柏原櫟蔵(1852-1900)は、幼名を楽蔵といい、明治2年地図には幼名で記載されている。明治になり柏原長繁(ながしげ)と改名する。父は藤田尚次郎の次男として津軽藩江戸藩邸二つ目中屋敷で生まれた。兄は藤田潜で、この本で実は兄弟であったことがわかった。婚姻関係が複雑である。明治4年、19歳の時に、上京して攻玉塾、その後、海軍に入り、軍艦「磐城」の艦長として郡司成忠らの千島探検に協力する。ちなみに笹森儀助がこの探検に同行するが、同郷の柏原の協力によるものであろう。

 藤田潜は幼名を徳太郎といい、同じく津軽藩江戸藩邸で生まれた。明治2年地図では徳二郎となっているが、藤田潜の父は尚次郎、祖父は次郎、曽祖父は冨次郎と代々次郎の名前であり、ほぼ同一人物であろう。明治4年に柏原と相前後して弘前を去り、静岡に行く。当時、静岡学問所は洋学においては日本最高峰であり、ここで英語を中心とした洋学を学び、その後、山澄吉蔵(直清)の関係から攻玉社で働くことになる。ちなみに潜の子、尚徳は後に海軍大将で、昭和19年から21年まで昭和天皇の侍従長を務めた。

 攻玉社と弘前の関係は深い。山澄直清は25歳の時に津軽海軍振興のために藩より派遣され、幕府軍艦操練所に入学する(NHKの龍馬で今ここが出ています)。この時の教授が後に攻玉塾を作る近藤真琴であった。その縁もあり、攻玉社では山澄は副社長であった。山澄を通じて、攻玉社と弘前のつながりができた。明治3年から20年の間に、51名の青森県出身者が攻玉社に入学したし、先生として在籍した者だけでも13名もいたという。

 加藤三吾も攻玉社に明治16年入学し、その後教員として務めた後、沖縄に行沖縄研究を行った。また出町良蔵も明治17年入学し、卒業後は一旦東奥義塾に勤務後、攻玉社の教員となった。ちなみに出町婦人ふさは加藤三吾の妹である。藤田潜は明治20年には、普連土女学校の創立にも関わった。普連土女学校はクエーカ教徒のジョセフ・コサンドと攻玉社英語教授の久野英吉が作った。今の普連土学院のことであり、学校紹介を見ると、地味ながら立派な学校である。

 こうして見ると、江戸から帰ってきて、明治2年当時、弘前市富田新町に住んでいた若者達は、競うように明治4年ころには上京した。東京生まれの津軽藩士にとっては、故郷の弘前は縁故も少なく、なかなか住みにくいところであったのであろう。その一方、富田新町に住んでいた者同士は、境遇が近いためか、明治になってからお互いよく協力し、その多くが攻玉社とつながっていく。「北の水路誌」には、よく調べたと思うが、藤田潜邸の広さは198坪、建坪は100坪で残りは畑で、それ以外にも郡部に農地をもっていたようだ。それを誰それにいくらで売って上京したということまで書かれている。あの地図で見ると、土地は細長く、狭いように見えるが、実際は結構広い。

 ちなみに前回のブログで述べた比良野貞固の名前は新寺町にはない。また地図の由来について調べたが、これも収穫はなかった。

写真上は軍艦「磐城」、写真下は郡司成忠である。ちなみに成忠の弟成行は、幸田露伴のことである。

2010年5月4日火曜日

明治2年弘前地図(富田新町)渋江抽斎




 森鴎外の渋江抽斎は、鴎外史伝の最高傑作であるとの評価があり、研究者も多い。私自身も興味があり、これまで何度も読もうとしたが、いまだに最後まで読めない。内容自体が難しいこともあるが、渋江抽斎という人物自体が地味で、その関連者もいわゆる歴史に残るような有名人はいないからである。鴎外が書いた時代であって、すでに忘れられたひとであり、鴎外がこういう形で残さなかったら、ほとんど痕跡すら残っていなかったかもしれない。ある意味、鴎外が渋江抽斎という本を書いたことで、はじめて名前と事歴が残った。

 昨日、岩波文庫の「渋江抽斎」をぱらぱら読んで、明治2年当時の弘前に関連するものを探してみた。もちろん明治2年には渋江抽斎は亡くなっており、その妻および家族は東京から国元に帰され、当時は弘前に住んでいた。その場所については、「渋江抽斎」その83に「富田新町には渋江氏の他、矢川文一郎、浅越玄隆らおり、」の記述がある。そこで明治2年地図を検索すると、なるほど富田新町の奥の方に渋江道順の名前が見える。またその2軒おいて右隣に矢川文一郎の名前が見える。道順とは渋江抽斎のことだそうだが、とうに亡くなったにも関わらず、この当時でもいまだ当主にしていたのであろうか。矢川文一郎の抽斎四女陸の嫁ぎ先であり、他にも記述が多い。浅越については不明である。

 他に誰かいないかと探すと、松森町側へのところに二筋入ったところに、柏原櫟蔵、山澄吉蔵の名前が見える。「渋江抽斎」その84に記載がある。共に海軍に入ったようだが、郡司らの千島探検に関係していたような気がする。また山澄の家の左の方には山鹿旗之進の名前が見える。山鹿旗之進(1860-1954)は山鹿素行の子孫であり、後に東奥義塾に学び、アメリカ留学後に牧師となった。早い時期に当主になったのであろうが、かなり長命であった。

 また矢川文一郎の斜め前当たりに、藤田得二郎の名前が見える。「渋江抽斎」その41に「当時の留守居役所には、この二人の下に留守居下役杉浦多吉、留守居物書藤田得太郎などがいた。 藤田は維新後に潜と称した人で、当時はまだ青年であった」の記載がある。藤田得二郎と藤田得太郎が同一人物であれば、後の攻玉社校長の藤田潜である。

 江戸期、弘前において富田町はやや郊外にあり、渋江家のような在府が長かった者達は、故郷弘前には家がなかったため、幕末の混乱期に富田新町というところにまとまって居住させられていたのであろうか。この地図の書かれた明治3年には武士の給料である禄が大幅に削減され、いよいよ生活に困窮するようになり、渋江抽斎子の成善も明治4年には東京に移り、その後家族も続く。明治2年というのはそういった意味では、大変重要な時期にあたり、渋江抽斎研究者にとっても、この地図は意味をもつ。今回は調べなかったが、「渋江抽斎」中にある比良野貞固は新寺町、平井東堂は塩分町にいたようで、調べれば在所はわかるであろう(塩分町には平井永二郎の名前がある)。

 富田新町は、現在御幸町、富田町となっているが、道は変わらず、ほぼ一致しており、渋谷家があったところも確定できる。

2010年5月2日日曜日

明治2年弘前地図および津軽藩地図



 本日は以前からお会いしたかった大学の研究者に家に来ていただいて、地図を見てもらった。お休みのところわざわざお越しいただき感謝している。

 津軽藩全体の地図よりは、やはり弘前市の明治2年地図に興味をもたれたようだ。大きさは148cm×158cmで弘前市博物館所蔵の明治4年地図が135.5cn×164cmでほぼ同じ大きさと言ってもよい。以前、細部を写真で撮っておいたが、そのデータをお渡しした。今後の研究に使っていただければ幸いである。

 明治4年地図はこの明治2年地図を元に作られたことは間違いない。先生の意見では、目的はわからないが、明治2年10月時の地図と言っても、すぐには完成するわけではなく、計画自体は幕末に立てられたのではということであった。江戸切絵図のように印刷物ではなく、すべて手書きで手間がかかっており、津軽藩によって計画された可能性がある。版籍奉還は明治2年6月、廃藩置県は明治4年であり、この明治2年から4年というのは江戸から明治に移行する上では重要な時期であり、この前から士族の現住所を藩で把握しておく必要があったのであろう。藩としては、明治新政府の政策に伴い武士の廃止はある程度、想定済みであったのであろうか。いずれにしても明治になり、それまでの武士は失職し、この時期を境に先祖伝来の土地を離れ、あるものは郡部に移り、農作に励むことになる。そういった意味ではこの明治2年地図は江戸期の武士の在所を示す資料になるかもしれない。藩で作ったとなれば、記録が残っている可能性がある。図書館でいずれ調べたい。また来歴は不明だが、藩の重臣の手元に残ったのが、どこかで散逸したのかもしれない。

 話のついでに、今ではそういうことはないが、昔は弘前市立博物館の資料を研究者がみる場合にはつてが必要で自由に見ることができなかったという話を聞いた。未整理の資料が多くあるが、研究者の調査を排除し、そのまま放置されていたようである。研究とは自由に出入りでき、資料を閲覧できることが基本であろう。

 これで思い出したが、山田兄弟の資料のほとんどは純三郎の子供順造さんが保有し、当初弘前市に寄贈しようと考えたが、当時の市の職員の対応があまりひどく、結局は愛知大学に寄贈されたという。近年では日本天文学のパイオニアである一戸直蔵の資料を郷里のつがる市で展示できないかと所有者が申し出たが、受け入れを拒否され、結局は平成20年に国立天文台に寄贈されたこともあった。山田兄弟の資料は愛知大学で本当に宝として大切にされており、また一戸の資料も国立天文台で今後もきちんと保存されるであろう。地元民としては郷土のお宝が他のところに行ってしまうのは残念であるが、資料の保存、研究としては結局その方がよかったのかもしれない。

 これについては、地方では予算が逼迫しており、文化財保護に対する予算も少なく、十分な人員の配置もできないことも起因している。資料の保存、研究といっても費用がかかることであり、寄贈の申し出があっても、予算、場所がなければ受け入りを拒否せざるを得ない。未整理の資料にしても、専門が多岐に渡り、少ない学芸員では十分に整理することはできない。

 県、市、あるいは大学といった縦社会の縄張りなどもあるかもしれないが、少なくとも、保存に支障がないかぎりにおいては、研究者には自由に簡単に開示できるようにすべきである。それと同時に多くの資料は未だに個人が所有しており、所有者自身が歴史に関心がない場合は、全く死蔵されている可能性もある。資料としての価値があるかを判断できる窓口を博物館や弘前大学で設けるべきであり、資料的な価値がある場合は所有権の移転はないが、保管、保存、研究は公的機関で行う、いわゆる寄託であれば、所有者にとっては歓迎されるであろう。

 ところが今のところ弘前市立図書館、博物館の方針は「当図書館の書庫が狭くなってきたこと、寄贈図書の整理・登録・装備に多大な時間がかかることなどから、郷土史料や古文書類を除く一般市販本については、ほとんどのものが当館で所蔵されていることを説明し、また、古書を有効に活用するための別の流通ルートの存在を示唆しつつ、あらかじめ断っているのが現状です。」、「博物館では、開館以来、市指定有形文化財等の貴重な資料のご寄託を受け、展示等に活用しております。但し、年々収蔵庫が狭隘となっているため、現在、特別な場合を除いては、博物館では寄託資料の受け入れを見合わせさせていただいています。【博物館】(平成19年6月4日回答)」となっており、事実上市民からの資料の寄贈、寄託は拒否している。これでは誰が資料を市に寄贈、寄託しようか。また寄託された資料についても「青森では,博物館の閉館で収蔵品が行き場をなくしている。青森市内に立つ旧清掃工場の管理棟。走り書きの文字が 記された段ボール箱が,薄暗い部屋の天井近くまでぎっしり積み上げられていた。「地蔵」「馬のくら」「絵馬」「柱時計」,中にはラベルに「石みたいなや つ」という説明の箱もある。これらは,青森市歴史民俗展示館・稽古館の収蔵品だった民具など約5万点の大半だ。」(2010年4月18日朝日新聞)という。誠にお粗末である。

 NHKでも取り上げられた田中忠三郎さんのぼろ布、裂織コレクションも結局は、郷土に残ることはなく、現在東京のアメーズミュージアムに展示されている。委託、寄贈も拒否され、仮に許可されてもこんな保管状態では、今後も郷土の資料、コレクションはどんどん県外に流出していくであろう。