2011年2月27日日曜日

ベンガル文学「駅舎にて」



 仙台に出張の折、新幹線で読んだのが、ブーダディヴァ・ボーズの「駅舎にて」(あすなろ書房 飛田野裕子訳)である。帯には「忘れられない恋があった 12月の夜、列車が動きはじめるまでの数時間 4人の男たちは、若き日の想いを語りはじめた」、「世界中で注目されているインド・ベンガル文学の奇跡の純愛小説」とのキャッチコピーがある。

 著者のボーズはベンガルを代表する小説家で1908年生まれで、1974年に亡くなっている。すでに死後37年経っている訳だが、おそらくこの作品が本邦で最初の翻訳本であろう。こういった作品がなぜ、今日本語の本となったかはわからないが、あまりなじみのない国の優れた作品が日本語になって読めることはうれしい。おそらくは訳者、発行元の作品に対する思い入れが本になったのであろう。文学は何もイギリス、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツだけでなく、トルコにも南米にもアジアにもアフリカにも優れたものは存在しているであろうが、それが訳されない限り我々は接することはできない。トルコのオルハン・パムクやペルーのマリオ・バルガスもノーベル賞を取ったからこそ、その作品も訳本がでるが、そうでなければこういった国の作品に接することは難しい。

 内容は読んでいただきたく、あまり触れないが、列車の足止めにより朝まで駅舎に待たされることになった4人に男が、一組の若いカップルを見たことで、互いの若き日の恋物語を語るという内容である。時代は戦争前の1920年代で、インドの古い風習や慣習が色濃く反映している。キャッチコピーのような純愛小説ではなく、過ぎ去った淡い恋の悲喜劇をさらりと語り、誠に小説らしい小説で、時代の古さを全く感じさせない。作品自体は1951年のものだし、内容も今風の恋愛ものでないが、私は今55歳だが、20歳の時の恋を思い出すような、ちょっとセンチメンタルになる点が普遍的で、いい小説はこういうものだと読後真っ先の感想である。恋といってもハッピーなもの、悲劇的なもの、全く相手にされないものなど色々あり、必ずしも映画になるようなものではないが、そういったことも含めて思い出のひとつとして大事なもので、誰だったそういった経験のひとつはあろう。

 本書に登場する恋は、恋して、つき合い、ハッピィーエンド(失恋)といった一連の段階のうち、恋しての段階止まりで、一編のみが付き合いの段階がなく、結婚にいたるが、それ以外は好きな人と話もしていない状況である。恋といっても初恋、片思いの類いのものである。恋が成就しても、長年の付き合い、結婚生活によりむごい状況に変質することはよくあり、むしろその段階に至らない方が思い出として美しいものであろう。

 インドのベンガル地方というと、映画監督のサタジット・レイを思い出す。大学生のころに「大地のうた」、「大河のうた」、「大樹のうた」の3部作を一日で見た記憶がある。映画の内容は全く忘れたが、インドの暑くて、乾いた大地の印象も強いが、木陰の気持ちよさもうらやましかった。ベンガルには詩人タゴールもいて、独特な文化圏と響きをもつ。

0 件のコメント: