2011年5月11日水曜日
佐々木五三郎2
津軽では何か物事を始めようとすると、「それじゃ、誰かバカになってもらおうか」と言われる。バカが一人いないと物事が始まらない。みんなで一緒というよりは、仕事、家庭も顧みず、一生懸命邁進する人物がいて、それに圧倒されてみんながついて行くというやり方である。
そういった意味では、佐々木五三郎は典型的な津軽のバカである。小さな薬屋を経営するだけでけっして裕福ではないし、子だくさんにも関わらず、いきなり孤児院を開設するのである。自分の生活を考えると、とてもやれるものではないが、一旦やろうと思うとめげない。ある日、いきなり孤児を家に連れてきて、今日から子供がひとり増えた、一緒に暮らすことになった。ここまでは奥さんは相当困惑するだろうが、何とかぎりぎり理解できるかもしれない。すると今度は店先に「院児希望者来来 当方只今壱人在 赤格子育児院長 佐々木五三郎拝」と書いた広告文を貼り出す。次々に孤児がやってきて、それを引き受ける。拒むことはないのであっという間に10人近い子供で家がいっぱいになる。とてもじゃないが、小さな薬屋では食わせるものがない。
みかん箱に立ち、「血も涙もある、弘前市民よ 度重なる飢饉のため、心はあれど、背に腹は替えられず、親に捨てられし幾十名の子供らが、あわれ餓死に迫られるこの現実は」と叫び、人がいても必ず最後は「誰(だ)も、いねぇでば」と独り言で笑いをさそった後、鐘を鳴らして小銭を投げ込まれるのを待つ。市民には人気があり、子供たちも「孤児院のオドさ 巨(で)ったらだ下駄コ履いで 鐘(かねこ)持って ガランガラン」とはやし立てる。こういった演説を毎日のように市内各所で行うのであるから、決して上等なひととは思われず、ちょっと変わり者といった評価が一般的であったろう。また年端のいかない子供に遠方まで押し売りまがいの行商をさせ、一部のひとからはヒンシュクを買った。それでも金がなければ孤児院の運営ができず、その日の食費がないため、必死である。「オドさの話コ 妙にむずかしきゃ。あんまる、ソキバらねえほうがいいごゼ」と中年のおばさんに冷やかされると、「喋べ事ズもの、むずかしばむずかしいはんど、ご利益があるように聞こえるんだねナ これがヨ、奇体に」と平然と答える。こうして集めた一銭、二銭の小銭が育児所の運営資金であった。また施設の裏で、ぶたやにわとりを飼い、それも資金源にしていたが、その餌を買う金がなく、あちこちから残飯をもらい、子供たちに集めさせた(じねんじょ一代 小説佐々木五三郎 有村智賀志著)。
それでもこういった行為に、支援する人々も少しずつ増え、映画上映器材を買うことができた。最初は県内各地に巡回興行をしていたが、そのうち常設の映画館の建設を思いつき、有志の寄付によって建てられたのが、慈善館である。大正3年ことである。これによって財政的には潤ってきた。ようやくである。石井十次の岡山孤児院も財政的にはきつかったであろうが、大原財閥の支援を受け、石井本人が金策のため、一銭、二銭を集めることはなかったであろうし、そこまでしようとは思わなかったであろう。むしろ支援者、後援者を集める方に集中したであろうし、その方が効率的である。慈善事業をするひとの目的は、名を買う事である。自分がいいことをしているのを、人に褒められ、尊敬されるのを心のどこかで期待している。決して人からばかにされたり、時には嘲笑されながら慈善事業を行うようなことしない。だが五三郎はそんな名声には全く無頓着で、単純に孤児を食わせ、育て、教育させることが一番と考え、金になることは何でもやった。それが五三郎の愛であった。
その後、東北育児所初期に入所した佐々木寅次郎を婿養子にし、慈善館の事業を任せた。寅次郎はいつもニコニコした温厚な人物で、長年に渡り、東北育児所の経営とともに、青少年の健全育成に力を注いだ。現在では五三郎の育児所は弘前愛成園として児童養護施設、養護老人ホーム、保育所や病院も含む大きなものに発展している。
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