2011年5月15日日曜日

佐々木五三郎3


 工藤睦男先生の論文「佐々木五三郎と東北育児院」はインターネットでも見れるが、佐々木五三郎についてのすばらしい研究である。その中で、明治38年、収容孤児の増加に伴い、新寺町円明寺裏の600坪の桑畑に新たな建物を建てた際の詳細が載せられている。その費用は500円という。

 明治31年の大卒の初任給が35円、明治10年の白米10kgの値段が51銭、明治26年の天丼の値段が3銭であった。今の大卒初任給は20万円、白米10kgの値段は3000円、天丼が1000円くらいとすれば、5700倍、5800倍、3300倍くらいとなる。明治30年ころの1円は今の6000円くらいに相当する。

 これから換算すると、明治38年に移転した新しい育児所の費用は500円で今の価値からすれば約300万円となる。今と違い家の建設費は物価と比較してもかなり安かった。ただ同時期、メソジスト派の弘前宣教師館の建設費が3000円、1800万円相当と比較しても、決して贅沢なものではなく、安普請の建物であったろう。また弘前の大口寄付者には10円が6名、5円が34名となっているが、今の物価に換算するとそれぞれ6万円、3万円となり、大口と呼ばれるほどの額ではない。例えば石井十次の岡山孤児院に大原孫三郎が注ぎ込んだ寄付の総額は一人で10万円以上、今の貨幣価値で6億円以上とされ、孤児院の規模が全く違うが、石井十次は大原らによる大口の寄付により院の経営が成り立っていたが、佐々木五三郎はそれこそ今の価値で60円(一銭)、多くて6万円くらいの少額の寄付金により運営していたことがわかる。

 工藤先生は、5円以上の大口寄付者の顔ぶれは、当時の弘前の著名は知識人、財界人であったとしており、確かにそうではあるが、それにしてもその中には相当資産家もいて、寄付額としては全力で支援したとは言えまい。大原孫三郎のようにパトロンというよりは、一市民として五三郎の善意に感動してあくまで自分のポケットマネーから寄付したようだ。また石井十次は熱心なキリスト教徒で、孤児院開設当時から信者あるいは教団からの支援を受けていたが、五三郎は東奥義塾で多少はキリスト教の影響を受けたにしろ、あれだけプロテスタンの盛んであった弘前で、特に信者や教団からの支援は目立たない。インテリ階層、士族の多かった信徒からは、五三郎のなりふり構わない寄付を集めるやり方に抵抗があったのかもしれない。キリスト教徒や旧士族からすれば、年端もいかない孤児にへんてこな衣装を着せ、遠くまで押し売りまがいの行商をやらせることに反発したのであろう。

 石井十次は、岡山の四聖人、児童福祉の父と呼ばれ、また石井十次顕彰会による石井十次賞というものもあり、死後も名声に包まれた。数多くの本も出版され、映画化もされているが、一方、佐々木五三郎は、東北で最初に、それも貧乏県青森県において孤児院を開設したにも関わらず、地元弘前でもほとんど知られていない。ある意味、信仰をもつひとは、特にキリスト教ではその教えより慈善事業へ駆りたたえることはあるし、事実日本の明治期、大正期の児童福祉事業はほとんどそうであった。弘前でもキリスト教会による孤児院を作る試みはあり、大正3年にはチフス流行により親を失った孤児を収容する「健康園」を開設したが、わずか3か月で閉鎖された。五三郎の事業は、日本でも唯一そういった宗教心とは無関係の、個人の純粋な善意、義侠心により起こったもので、決してかっこいいものではないが、ひとつの日本人の美徳の現れであろう。さらに息子がいるにも関わらず、施設で預かった太田寅次郎を娘婿にし、軌道に載った育児所の経営を任せたことは、石井十次の「与は孤児の友なり、盲啞の友なり、病者の友なり、寡婦の友なり、囚人の友なり」の信念よりさらに進んだ「孤児は与の子供なり」の深い愛を感じさせる。

 当時の弘前の人々の反応はどうかというと、変わり者のおっさんというイメージが強く、とても佐々木先生、先生と呼ばれるような尊敬される対象ではなく、あくまで「孤児院のオドさ(おとうさん)」、「親方」と気安い存在で親しまれていた。津軽はむずかしいところで、こういった善行も市民が諸手を挙げて支援するわけではなかったが、それでも心あるやさしい市民はわずかな収入から寄付をよせた。ついに生涯顕彰されることもなく、死後も大きな評価をされていないが、本人はそういった名声には無関心で、純粋に孤児を救えたことで本望であっただろう。その座右銘は「子は神なり。之を愛するは人の道なり」であった。佐々木五三郎が作った弘前愛成園は、来年110年を迎える。

 写真は石井十次の岡山孤児院。大規模である。佐々木五三郎は孤児院という名称を嫌い、育児所という名称を使った。

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