2011年5月19日木曜日
余は如何にして矯正歯科医となりし乎
どうして私が矯正歯科の道に入ったかを話したい。
歯学部の6年生になると、卒業後の進路を決めなくてはいけない。実家が歯科医院をしており、兄もすでに歯科大学を卒業し、地元歯科医院に勤務医として働いていたため、私はもう少し大学に残って勉強しようと思った。歯学部に入る経緯も、当時新設された大阪大学の人間科学という学部にいき、将来はジャーナリスト、といっても雑誌の記者になりたいなあとは漠然と思っていたが、苦労しそうなので、身近な歯学部を選んだくらいで、どういった歯科医になりたいという望みも全くなかった。ただ東北大学では5年生になると、基礎講座で1年間研究を行うシステムがあり、私は山田正先生のいる生化学を選んだ。そこでは唾液の緩衝能を調べる簡単な研究を行ったが、それでもここで研究の醍醐味を知り、できたらこういった研究を今後もしたいと考えるようになった。
当時、歯科といえば補綴、保存、口腔外科がメインであり、小児歯科はあまり人気がなく、とくに男子の入局者が少なかった。そのため医局でもだれか男子の学生を入局させよという命令が出たのか、7月ころから小児歯科のS先生から小児歯科に来い、生化学の研究もしているし、いいところだと熱心に口説かれ、早い時期に入局が決まってしまった。ちなみに私の学年では私ともう一人の男子学生と一人の女子学生が入局した。
幸い、医員というポジションをいただき、日給4000円くらいで、月に10万円くらいもらえることができた。ようやく親の仕送りの世話にならなくなったわけである。当時の教授は神山先生で、まじめでやさしい先生で、1年目は教授自ら臨床の手ほどきを受けた。今と違い、隣接面カリエスの処置はレジン充填ではなく、インレーで処置していたが、乳歯の場合、窩洞形成を深くできないため、脱落が多く、形成が難しかった。すべて自分で技工もしていたので、2年間毎日形成しているうちに、結局はきれいな形成をすることが脱落予防に繋がることがわかり、この時期ずいぶん形成の修練を受けた。また当時は咬合誘導という概念があり、乳歯の早期脱落の場合はクラウンループ、ディスタルシュー、保隙床など今ではほとんどしないような処置を数多くやった。それでも乳歯冠やエンド処置なども含めて小児歯科の処置自体はそれほど難しくはなく、3年間である程度は臨床的には自信がついた。ただ障害者の治療は経験と知識が必要で、これは難しかった。
3年目になると、マルチブラケット装置による矯正治療を小児歯科で習ったが、矯正科に隠れてこっそりやるようで居心地が悪かった。同級生とモイヤースの教科書を用いて矯正歯科の勉強会を行ったりもした。咬合誘導というのは、日大の深田先生を提唱した概念で、本来の子供の成長から逸脱した方向性を正し、きれいなかみ合せを作るというもので、先に述べた保隙という概念がメインであった。すなわち下の前歯がでこぼこしている場合は、乳犬歯を削り(ディスキング)し、リンガルアーチという装置を保隙として用いて、リーウェースペース(乳臼歯と永久歯の大きさの差)を利用して並べる。あるいは乳歯が早く抜けた場合はその隙間を確保するというものであった。永久歯が完成した時点でマルチブラケット装置による治療で仕上げるが、よほどのことがなければ永久歯の抜歯をすることは禁忌であった。一方で、歯の保存を唱えながら、健全な永久歯を抜くという発想は小児歯科ではできないことであった。今の非抜歯治療を行う先生方も同様な感覚であろう。
これでは不正咬合のうちの一部しか治療できなのは自分ではよくわかっていたし、不満であった。その後、幸地先生の合同外来、これは矯正科、小児歯科、口腔外科がチームとなって口蓋裂の子供の治療を行うところであるが、ここに2か月くらい行き、幸地先生から矯正臨床の基礎を学ばさせてもらった。ここでは当たり前だが、抜歯も普通にやっているし、マルチブラケット装置も特別なものではなかった。ここでの体験から矯正治療に強く引かれた。
4年目を迎える際には、医員の枠が全体的にしぼられるため、助手になるか、やめるかの決断をしなくてはならず、私自身、小児歯科の臨床は大体習得したと思っていたので、この際だから矯正歯科で本格的に学び直そうと考えた。同じ大学で、科を変えることは難しく、そこで幸地先生に相談したところ、前の東北大学矯正科の助教授で、鹿児島大学に赴任した伊藤学而先生に頼んでみるとのことであった。その際、助手に採用してくれないかと無謀な条件を出した。幸い、伊藤先生から、その条件ですぐに来いという返事をいただき、年末に鹿児島に赴いたところ、すぐに助手の手続きをしていただき、4月から採用となった。こうして小児歯科から矯正歯科に進路を変えた。
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