2011年5月29日日曜日
2枚の明治4年弘前城下絵図
今日は、弘前博物館で開催されている「近衛家陽明文庫名宝展」を見に行って来た。弘前と近衛家とは関連が深く、こういった催事も津軽家と近衞家との古くからの関係によるものだろう。因みに山田純三郎が日中和平に動いた時の協力者の中心には近衞文磨首相の長男文隆であったし、山田純三郎と兄良政が入学した東亜同文書院の創設者は近衞文磨の父、篤磨であった。
帰りに弘前市立観光館を訪れると、ちょうど弘前城築城400年祭記念事業の一環として「絵図と航空写真でたどる城下町弘前の変遷」をやっていた。江戸から明治までの城下絵図と航空写真が展示されていた。こういった絵図は大きなもののため、なかなか実際に見る機会は少なく、個人的には大変うれしかった。
とりわけ、「明治4年士族在籍引越之際地図並官社学商現在図」が展示されており、偶然とはいえ、こうして実際にみることができて、本当にラッキーであった。ところがカメラを家においてきたため、すぐに家まで帰り、カメラを取りにいった。受付の博物館の人に許可を得て、何枚か写真撮影したが、保存のためビニールの覆いがしてあり、うまく撮影できなかった。
当日、展示されていた明治4年士族引越之際地図は、弘前市立図書館のものであった。この地図については、弘前市立博物館蔵となっていたり、弘前市立図書館蔵となっていたり、所属がはっきししておらず、以前からどうなっているのか疑問であった。その点を受付にいた係員に聞くと、どうも図書館蔵と博物館蔵の2枚あるとのことであった、初めて聞くことである。
さらに弘前博物館蔵の地図の写真を博物館の係員が持っていたので、それと展示されている図書館の地図を比較すると、木の描き方が全く違い、両者は全く同じものでないことがはっきりした。全体的な印象としては、軸装されているが書かれている紙が薄い感じがした。明治2年絵図は何枚もの和紙を重ねたかなり重いものであるが、この明治4年地図は紙質自体が薄い。さらに書体は全く違い、作成者も異なるし、全体的には省略や、何と言うか気合いに欠ける。書体もいかにも写しという感じで、時代も明治4年というよりはもう少し後の作成のような気がする。実物は見ていないが、もうひとつの博物館にある明治4年地図の方が力が入っているような印象をもつ。
つまり最初明治2年絵図が製作され、明治4年までに引っ越した士族の数を調べるために弘前博物館の明治4年が明治2年絵図を元に作られ、それを写したものが今回展示された図書館所蔵の明治4年地図のように思える。地図というのは実用性から作成され、不必要な装飾は必要ないが、今回見た図書館蔵のものは寺などの木を薄墨で表現しようとしているが、稚拙であり、それがかえって写しの証明であろう。
それでも今回初めて明治4年の城下絵図の現物を見れたことは、大変勉強になった。射撃訓練所など幕末にできた弘前藩の施設は一切記載されておらず、その点でのわずか2年間であるが、この間の違いを明瞭に示す資料であろう。明治2年絵図と明治4年絵図をもっと詳しく比較することで、幕末期から明治初期の町の変遷を調べることができそうである。
展示されているその他の地図もそうであるが、地図を研究する場合は、確かに現物の雰囲気を知ることは重要ではあるが、細かい比較、重ね合わせをする際にはデジタル化して、コンピュータ上で拡大して比較することが不可欠で、できればすべての絵図はデジタル化してほしいものである。費用は専門業者に頼めば莫大な費用がかかるが、今回私がしたような地元の印刷業者に頼めば、数万円程度であり、博物館、図書館とも財政難であるが、市あるいは弘前大学で多少費用はかかっても是非デジタル化してほしい。最近では多くの古地図がインターネット上で見ることができる。
写真は品川町の明治2年と明治4年絵図で、明治4年絵図の富田新町のある区画は△印がつき、ほぼ一帯全体が転居しているが、それ以外は割合移動は少ない。また明治4年絵図では警察見張り所や浴室(銭湯)、半鐘の記載が付け加えられている。カラーで見ると、明治2年と4年のわずか2年の違いにしては、両者の雰囲気があまりに違い、単に写しという以上に、明治4年絵図の製作はもう少し時代が新しい感じ、明治10年以降とするのは私だけであろうか。字の違いだけでなく、そこに込められている手間、気合いの差を感じさせる。
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