2011年7月10日日曜日

渋江抽斎と弘前



 以前から読みたかった松木明著「渋江抽斎人名誌」(津軽書房、昭和56年)を最近友人からいただいた。渋江抽斎に登場するすべての人物、814名についてくわしく説明した渋江抽斎研究の基礎的な資料である。

 渋江抽斎のその83に「冬になつてから渋江氏は富田新町の家に遷ることになつた。そして知行は当分の内六分引を以て給すると云ふ達しがあつて、実は宿料食料の外 何の給与もなかつた。これが後二年にして秩禄に大削滅を加へられる発端であつた。二年前から逐次に江戸を引き上げて来た定府の人達は、富田新町、新寺町新 割町、上白銀町、下白銀町、塩分町、茶畑町の六箇所に分れ住んだ。富田新町には江戸子町、新寺町新割町には大矢場、上白銀町には新屋敷の異名 がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆等が居り、新寺町新割町には比良野貞固、中村勇左衛門等が居り、下白銀町には矢川文内等が居り、塩分町には平井東堂等が居つた。」とある。これにより「明治二年弘前絵図」では写真、新屋敷を下級武士の住む長屋としたが、在府の武士の弘前帰藩に伴い新たに作られた施設であることがわかる。また松木明氏の本から「矢川文内」は矢川家本家で、200石八人扶持の中級武士、矢川家は代々長足流の馬術をもって使えた名家であるとの記載がある。下白銀町には津軽家親族、家老などの上級武士しかおらず、その屋敷の一部に住んでいたのかもしれない。

 拙書では、塩分町の平井永二郎は書家の「平井東堂」の子だとしたが、同書では平井東堂は四人の娘がおり、大石鉄太郎の二男永次郎を養子にもらったと記されている。残念なことに永次郎は若くして亡くなったが、当時は戸主となっていたのであろう。地図では平井と同じ町内に大石鉄五郎の名がある。他にも塩分町には渋江抽斎関係では、「星野伝六郎」、「戸沢八十吉」もいる。さらに稲葉三橘の名前があるがこれは「稲葉丹下」の家であろう。

 次に富田新割町では、「渋江抽斎人名誌」のあ行から見て行くと、比良野貞固妻かなの実家「藍原右衞門」は、山鹿旗之進の3軒隣に藍原衞門の名前がある。珍しい姓なのでこれでまちがいない。日銀理事を勤めた「飯田巽」、通称虎之丞は、富田新割町には飯田升吉の名前があるが、どうも違うようである。また「杉浦喜左衞門」の名前を探すと、富田新割町の渋江道純(順)の斜め前に杉浦常蔵の名前が見られる。杉浦は津軽家留守居下役で、初代の名前が常蔵であったことから、これも同定できる。また渋江家の左3軒となりの菱川祐蔵は、渋江保の上京を見送った「菱川太郎」の父であろう。菱川家の逆方向の端に「西村与三郎」の名がある。また江戸で仲のよかった「前田善二郎」は渋江家のちょうど前に名前が見られる。また「松本甲子蔵」は品川町方向に名前が見られる。それ以外にも、すでにこのブログで紹介した「山澄吉蔵」、「藤田徳太郎」、「柏原擽蔵」、「矢川文一郎」らの名が富田新割町に見える。

 新寺町新割町では、「中村範一」の名がある。中村勇左衞門のことでる。「浅越玄隆」などの藩医は士族でないため、この地図では確認できないが、「比良野貞固」は変わった名前のため、すぐに探せると思ったが、平野の姓で探しても見つからなかった。(「  」はすべて渋江抽斎人名誌に記載された名)

 渋江抽斎に登場する弘前藩士の多くは定府のものであり、生まれも江戸、育ちも江戸といった人々が、幕府解体とともに弘前に移住させられた。新寺町、富田町、茶畑町の新割町、塩分町、上白銀町新屋敷にまとまって住むことになったが、江戸生活に慣れた彼らにとって津軽での生活は、色々な意味で慣れなかったのであろう。明治の早い時期に再び上京するものが多い。弘前には、今でも標準語でしゃべる方がいるが、在府の士族は弘前に移っても江戸弁でしゃべっていたようで、その名残が子孫にあるのかもしれない。また渋江抽斎の交際相手には医者が多かったが、藩医とは言え、身分は武士とは違うせいか、明治二年絵図でも藩医の家は見つけるのは難しい。

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