2011年7月31日日曜日
大星場と岩田平吉
より大きな地図で 大星場 を表示
茂森の西、今の常盤坂には、大星場と呼ばれる大砲訓練所があった。明治二年弘前絵図では「大星場と称す。嘉永七年(1854)八月落成。工事人夫9854人任用す。砲口より大築造の距離5町50間 横幅60間(的のところの大きさは)高さ13間 横100間」という大規模なものであった。大きさをメートルで表すと、大砲を置いた砲口から的までの距離は630m、横幅は110mとなり、現在のりんご公園内にあるすり鉢山が大砲の的であるから、そこから垂直にグーグルマップ上でその場所を表示すると砲口は常盤坂のオサ建設工業あたりになる。
ここで使われていた大砲は野砲と呼ばれる馬などで運ばれる比較的小型なもので、青森湾などに設置された沿岸砲のような大きなものは、ここまで持って来れなかった。佐賀藩や薩摩藩などは鉄製の大砲を欧米から輸入、あるいは反射炉などで製作できたが、弘前藩では当然青銅製の大砲が使われていた。どういった種類の青銅砲が使われていたかというと、幕末から戊辰戦争に使われたフランス式の四斤山砲は1867年ころからは国産化されたため、場合によっては官軍が持ち込み、函館戦争前にはここで使われた可能性はある。それ以前、弘前藩で購入あるいは製作していたのは、おそらくは和砲であるポンペン砲や韮山砲、あるいは丸太をくり抜き縄でしばった木砲で、そういった大砲を大星場で使っていたと思われる。これらの旧式砲は有効射程も600m以下くらいであったため、大星場程度の大きさの演習場で十分であった。照準は全く勘で、火薬量や仰角を決めて発射したため、その指揮には高度な技術を要したし、実践で活用するためには十分な訓練が必要であった。薩英戦争や彰義隊討伐で有名なアームストロング砲は射程も4000-5000mと長く、大星場のような小さな演習場では使えない。
大砲指導は誰がやったかというと、これも全くの推測であるが、幕末期に西洋式砲術と言えば江川太郎左衞門の江川塾であり、ここでは薩摩藩の大山巌、黒田清隆、野津道貫 らが学び、弘前藩からも岩田平吉も派遣され、ここで西洋砲術を学んだ。当然、岩田は弘前藩では西洋砲術のエキスパートであり、大星場でも指導を行った可能性は高い。岩田平吉にまつわる話でおもしろいのは、西堀近くの割烹「野の庵」の女将佐藤貞子さんの口伝で、創業者佐藤与七はこの岩田平吉(恵則 よしのり)の従者であったが、与七は東京で暮らすうちにそばの味を知り、明治維新後そばも出す小料理を開いた。知り合いの寺院からお布施でもらうそば粉、大豆の活用を依頼され、それで作ったのが津軽そばと言われている。これをみる限り、津軽そばの歴史は意外に新しく、せいぜい明治以降のものであることがわかる。また岩田平吉が津軽そばの誕生に関わったようだ。
(http://flat.kahoku.co.jp/u/mingei/m3byQIszaFVJ0ZpG4ovL/)。
岩田平吉(1818-1895)は、兵部省を経て、明治5年に海軍省造船局砲器科に務め、明治28年に死去した。明治2年当時の住所は小人町にその名が見られる。江川塾の同門の佐久間象山は1811年生まれであるから、彼よりはやや若いが同世代で、明治二年当時で50歳というのは、維新後活躍するにはいささかきびしいようである。現在、若党町に保存されている旧岩田家住居は、おそらくこの岩田平吉の親類のものと思われるが、明治2年絵図で調べると、近藤祐斉という方の家であった。岩田という姓は弘前では少なく、武家で岩田という名前は小人町のここだけであった。おそらく維新後平吉は東京で生活したのであろうが、その親族が若党町に住んだのであろう。
弘前藩では藩で大砲を製作したという記録もあり、おそらくは現在のニューキャッスルホテルのところにあった明珍工場で鋳造青銅砲を制作し、大星場で試射した可能性もある。そうでないとわざわざ内陸部の弘前にこういった大規模な砲術訓練所を作る必然性は低いと思われるし、砲門数は不明ではあるが、そこそこの数の大砲を持っていた。函館戦争でも砲兵二隊と大砲7門を戦地に派遣し、これは野砲であり、これ以外にも青森湾には外ヶ浜には大型の7門の沿岸砲も設置しており、相当数の大砲は保有していたものと推測される。それでも薩摩藩は290門、長州藩は220門、佐賀藩は201門などに比べると全くお話しにならない数であった。
(http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/bakuhan1.htm
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