2011年7月3日日曜日

二人の木村繁四郎



 おかげさまで、本の売れ行きも順調のようで、紀伊国屋書店弘前店の週間ランキングの5位となりました。といっても取扱店はここだけですし、それも20冊程度が売れただけですが。それでも交差点で信号を待っていると、前に立っているおじいさんが紀伊国屋書店の袋を持っています。よく見ると私の本が袋の中に入っていて、本当にうれしい気分でした。

 こういったブログをしているといろんな方からお便りがきます。多くは先祖が弘前で、今は県外にいる方からのものです。こういった方からの情報は結構面白いものですので、できるだけ手持ちの資料で調べてみますが、なかなかわからないことばかりです。

 木村繁四郎というひとがいます(1840-1879). 木村繁四郎(杢之助)は函館戦争では活躍し、後に東北鎮台第一分営地司令となり、西南戦争に参加する途中,明治12年に39歳の若さで亡くなります。この繁四郎の孫がビキニ水爆実験の折の死の灰を研究したことで有名な東京女子大学長を勤めた木村健二郎になります。また繁四郎の長女郁が伊東重に嫁ぎ、伊東重の妹が今東光の母親綾なので、綾からみればこの郁は義理の姉に当たることになります。

 ところがこれは今東光研究家の矢野隆司氏からのパクリですが、今東光が横浜時代非常に世話になった人物で、当時横浜一中の木村繁四郎という人物がいます。先の木村繁四郎とは時代が違い、同一人物ではありません。どうも先の木村繁四郎の息子のようで、同じ名前をつけたようです。親の通称を子が名乗った訳です。こんがらがるので、親を杢太郎、その子を繁四郎とします。杢太郎の長女郁が伊東重に嫁ぎますが、杢太郎の息子の一は今東光の父親今武平の妹の常子の夫となります。こういった複雑な婚姻関係ですが、確かに木村家と今家は親戚同士になります。木村繁四郎は明治8年から14年まで東奥義塾に在籍したことはわかっているが、その後の経歴は不明です。

 さらに航研機で周回後続距離世界記録を樹立した藤田雄蔵中佐がかかわってきます。藤田は大正元年に横浜一中に入学しますが、当時の横浜一中の校長が前述した木村繁四郎、その夫人クニは藤田雄蔵の母清美と同郷、同窓で、また今東光、日出海兄弟の母綾も同郷、同窓であったようです。つまり、横浜一中の木村の妻クニと藤田雄蔵中佐の母清美と今兄弟の母綾は同郷、同窓で、非常に仲がよく、さらに藤田と今の家は勤務先も日本商船、住まいも藤田が戸部町、今家が伊勢町で近いため、毎日のように遊びに行っていたようです。戦前までの津軽の人間関係は親類と同窓関係でかなり緊密だったようですし、こういった関係を知らないと交流関係も読み解けないようです。


 この木村杢太郎(繁四郎)を弘前絵図で探すとなると、これは大変で、通称の杢太郎、繁四郎の他、藹吉、重清,一綱(ひとつな)の名前もあり、同一人物で、5つの名があります。この5つの名で地図を探すと、ありました。元寺町の現在の文化センターのところに木村藹吉の名前が見えます。木村藹吉から草冠が抜けていますが、間違いないと思います。かなり大きな屋敷で高禄の侍だったのでしょう。

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