2011年7月20日水曜日
珍田捨己11
昭和天皇に関する本が最近多く出版されている。平成になってはや23年、昭和天皇のことを知らない世代も増え、ようやく昭和天皇に対する客観的な研究ができるようになったからかもしれない。
中公新書から出版された「昭和天皇 理性の君主の孤独」(古川隆久著 2011)を読んだ。国際協調の立場から、終始世界平和を祈念されている天皇をないがしろにする軍首脳の傲慢さは、最終的には日本の敗戦に繋がっていく。確かに軍人は常に戦を求める存在であるが、軍トップの天皇の意思を曲解して、自分たちの都合のよい下克上的な考えを押し進めるやり方は、古くは長州藩の藩主と桂小五郎、高杉晋作の関係に近い。大正から昭和に移る極めて不安定な時期、軍部がはびこる戦前の時期、唯一理性的な国際的な感覚を持っていた人物こそが昭和天皇であり、そういった意味では「理性の君主の孤独」という存在であったのであろう。著者はその天皇の性格形成を皇太子時代の教育に求めた。杉浦重剛の倫理学、白鳥庫吉の歴史、清水澄の法制経済などにより、天皇になった際の周囲や社会から求められる考え方や振る舞い方、天皇機関説の受入れなどを学んだことが、後の昭和天皇の性格を決定したとする。
「昭和天皇 第二部」(福田和也 2008 文芸春秋)では、皇太子時代の訪欧によりヨーロッパを直接見聞したこと、イギリス王室と親しく接することで、立憲君主の立場を明確に認識したことがわかる。それでも大正天皇が病気がちで公務が不可能な時期に、なぜこうした長期のヨーロッパ外遊がなされたかは、はっきりしなかった。
こういった疑問に答えてくれたのが、「裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記」(波多野勝 草思社 1998)である。これを読むと、山県有朋、松方正義、西園寺公望らの明治の元勲らは、残り少ない人生の中で最も心配だったのが、皇太子のことであった。霞ヶ関離宮の晩餐会において、皇太子は「着席遊ばれたるのみにて何にも御話し遊ばされず、何か御話し申し上げても殆ど御応答なき状態」だったという。また山県が皇太子に拝謁した折も「御返司なく、何にも御下問なく、恰も石地蔵の如き御態」ときびしく、東宮大夫浜尾新の「箱入り御教育」をはげしく非難している。これには当時首相の原敬もそう感じていたようで、大正天皇の病状が進んでいる状況において皇太子がもっとしっかりした人物になってほしいと強く望んでいた。皇太子の教育は講義を聴くという一方通行のもので、こういった教育方針では決して強い指導者としての思想、行動は形成できない。新たな経験をして、人と話し、行動することで知識が身に付く。この機会に思い切って皇太子を外遊させ、経験を通じて指導者としてふさわしい心構えを身に付けてほしいと考えた。
こういった元老たちの焦りにも近い皇太子教育を託したのが珍田捨己であった。この人選には全く迷いはなかった。松方から山県への手紙では「御供頭と可申人物は、兼而御互に御相談申上候通是是非珍田之被御申付度」と要請しているのに対し、山県はその返書に「随行員等は如論是非珍田御派遣不仰付ては他に適任者無之他の随行員は如何様とも御詮議可相成様」と供奉長として珍田の名を挙げ、両者の意見は完全に一致している。さらにパリ平和会議でも苦労をともにした牧野伸顕宮内大臣は珍田を「周到にして有能、人望を集め、霞ヶ関では屈指の人物」と評し、全幅の信頼を置いている。
このヨーロッパ外遊、特に英国王室と接したことこそが、昭和天皇の人格形成に大きな影響を与えていることは否定できない。もしこの外遊がなければ、戦後、天皇制度の廃止、少なくとも昭和天皇の廃位は免れなかった可能性は高い。
ヨーロッパ外遊時の写真を見ていると、皇太子の側にいつも珍田の姿が見える。行きの船の中では、西洋料理のテーブルマナーも知らない皇太子を供奉員はそれこそ手取り足取り教え、スピーチの仕方から、振舞、挨拶まで、すべてを叩き込んだ。随行員で、後の海軍大将竹下勇は「三名(閑院宮、珍田、竹下)殿下の御挙動等に就いて、尚未だ御直しにならざる点二三ヶ所あり、珍田伯涙を流して言上したり、余も軍人が敵陣に向ひ突入し又は敵艦隊と交戦するは決して難事にあらず、唯だ殿下に諌言を言上するは至難中の難事なり、之を敢えてするはよくよくの事と御思召され御嘉納あらせられることを切望申上たるに、賢明寛大なる殿下は能く御嘉納あらせられたり、難有きことなる。」と記している。命がけの仕事である。
帰国後の皇太子の成長には、原首相、山県、松方も非常に喜び、その成果に満足しているが、珍田から牧野宮相の報告では、今後一層の御補導が必要なこと、「御学問の足らざる事、御研究心の薄き事等」を指摘し、きびしい。それでも昭和天皇にとってはこの外遊はよほどうれしい思い出なのか、帰国後も出発日の3月3日には渡欧記念の御陪食会を開き、随行した供奉員たちと楽しげに思い出話をしたようだ。昭和6年頃まで10年近く続いたようで、非公式の宮中行事としては異例なものであったという。
写真はパリ平和会議の時のもので前列一番左が珍田捨己、隣が牧野伸顕である。また「皇太子殿下、訪英 大正10年」で検索するとニコニコ動画で、その真ん中当たりに珍田の姿が見える。
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