2011年8月6日土曜日
岡村チエ
前回のブログで山田純三郎と岡村寧次大将の関係を述べたが、岡村大将と津軽は他にも浅からぬ関係がある。
岡村大将の妻、チエは、黒石市の大地主、加藤宇兵衞の娘で、昭和11年に結婚した。岡村は10年ほど前に先妻を亡くし、独身であったが、直参旗本の家柄に生まれた母親がきびしく、母親とうまくやっていける娘、大事にしてくれる娘ということで、選択が難しく、長く再婚しなかった。チエとの結婚時、岡本は仙台第二師団長の中将で、師団長は親補官であるため、結婚の裁可も天皇の許可が必要であった。日本人で天皇の許可を得て結婚したのは岡本夫妻くらいだという。
岡村チエの父、宇兵衞(1861-1928)は貴族院議員で、故郷の黒石市には未公開であるが、りっぱな屋敷と庭(金平成園庭園)がある。インターネットによれば「加藤は、失業対策事業の一環として金平成園の造園に着手しました。庭園の名称は、「万民に金が行きわたり、平和な世の中になるように」ということから 「金平成園」と名づけられました。しかし、加藤家の家業でもあった酒造業の初代屋号である「澤屋成之助(さわやなりのすけ)」の名前から「澤成園」とも呼ばれ、こちらの名称が広く使われるようになりました。」となっていて、黒石地域の名士であった。明治23年から大正12年までは貴族院議員に立候補する有資格者は青森県で15名、黒石では鳴海久兵衞、宇野清左衞門と加藤宇兵衞の3名であった。
「妻たちの太平洋戦争 将軍/提督の妻12人の生涯」(佐藤和正著 光人社NF文庫 )には岡本大将の意外な側面を知ることができ、興味深い。この本から少し引用する。「戦後の岡村は、よく自邸で、「大将会」を開いては旧友を語りあったり、大学の先生を読んで講義を聞くなどを催していた。ある冬の寒い日、お手伝いさんがスリッパがないとさわぎ出した。まもなくお客が集まる時刻である。家中をさがしてみると、岡村がストーブの前で、スリッパを一つ一つ暖めているのだった。人いきや、たばこの煙で部屋が息苦しくならないように、機をみて、そっと窓や欄間をあける行きとどいた配慮は、岡村をたずねた人々はみな経験しているところだ。「その日の天候とか、風向き、日当りの具合、主賓の位置を考慮にいれて、どの窓をどのくらいあければいいのかなど、細かく気を配る人なんです。きちょうめんな性格さんです」と夫人はいう。」。岡村は、このように几帳面で正義感の強い性格だったため、日本軍兵士による中国婦女子への強姦は許すことはできず、昭和15年には陸軍刑法の強姦罪が普通刑法と同じ親告罪である点を改正するように提案し、昭和17年には戦地強姦罪として制定させたり、また現実的な方策として慰安婦設置を行った。
一方、こういった大将のイメージにそぐわない几帳面さは東条英機にも見られ、幼年学校、士官学校出の昭和の将軍に見られる官僚的な性格とも言えよう。昭和の陸軍は日本最大の官僚組織であり、その頂点となる大将も、武人というよりは官僚の長としての性格が強く、逆に他の官僚機構同様そうでなければトップにはなれなかったのであろう。山県有朋亡き後、新しい陸軍を模索した一夕会には永田鉄山、石原莞爾、板垣征四郎、東条英機、岡村寧次もこの会のメンバーで、ある意味このメンバーの意図によって日中戦争、太平洋戦争に突入していったが、元老に匹敵する強いカリスマ性をもつ人物はこういった官僚的な軍人からは現れず、制御不能な状況に追い込まれて行く。唯一、リーダーになれそうな人物として、永田鉄山がいたが、1933年に相沢中佐によって暗殺された。大きな損失であった。官僚にとっては、国より自分の所属する組織の方を優先する性格を持ち、陸軍という巨大な官僚組織が戦争に突入させたかもしれない。
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