2011年8月27日土曜日

風水による弘前城下の守り



 先日、養生会の第118回の創立記念式で「明治二年弘前絵図」というタイトルで講演してきた。118回というのがすごい。明治22年に養生会ができてから、戦後もずっと継続してきた。つい日本人は戦前と戦後を分けて考える習慣ができてしまっているが、いくら戦後世の中ががらっと変わったからといって、続くものは続いて行く。弘前にはこういったものが多く、これを司馬遼太郎は「もの持ちのいいところ」と評したのであろう。

 さてこの講演では、最初に弘前全体について紹介し、その後、偉人の生誕地を中心に各町単位でしゃべった。その時に気づいたことであるが、この絵図では町人の住まいを赤く塗っているが、弘前全体の印象として青線のように何だか、右卍(逆卍)に似ているなあと思った。ご存知のように弘前市の市章は左卍であり、これは津軽家の家紋によるが、これに関係あるのかと思った。ところが北東の線が右卍ではなく、むしろ大きな風車、水車と見なした方がよさそうだ。

 弘前城下は岩木山を真向こうにみるようにお城、道が作られているため、北西方向に少しずれている。一般の地図は北側が上になるため、どうも弘前の場合、しっくりしないのはこういった訳であり、明治四年絵図の方が日常的な方位感覚、岩木山の方が上、お城方向であるといった感覚にマッチする。

 岩木山から来た風は、この風車で右廻りに回転し、再び岩木川に流れていく。新しい風は風車を回転させながら街に活気を与える。一方、風水による邪の気は北東の表鬼門と南西の裏鬼門から入る。その邪気から逃れるため、弘前の街がとった方法は、鬼門には八幡神社はじめ、黒丸の7つの神社で防ぐというもので、市内にある12個の神社(住吉神社、五穀神社、稲荷神社はひとつとする)のうち7つを鬼門に集めた。一方、裏鬼門に当たる南西方面は禅林街、新寺町の40近い寺で守る。つまり表鬼門は神様で、裏鬼門は仏様で守ろうとするものである。強力である。

 さらにこれは佐々木隆さんからの引用だが(「風水で読み解く弘前」北方新社)、神明宮、八幡神社、熊野奥照神社、大杵根神社、東照宮、住吉神社、胸肩神社(佐々木さんは稲荷神社としているが)の7つの神社による北斗七星(緑線)があり、鬼門の邪気を防ぐ。さらに八幡神社、熊野奥照神社、杵根神社、神明宮、春日神社、紺屋町稲荷神社、淡島神社(保食神社)の7つの神社を結ぶ線(ピンク)も北斗七星を表しているとも考えられる。この二つの柄杓は、一方の柄杓は岩木山からの聖なる気を城下に注ぎ、神の力で溜まった悪気をもうひとつの柄杓で岩木川に捨てる。同時に大きな水車で気を循環させていく。

 実際、風車、北斗七星の説は、私の全くのこじつけで、根拠は薄いと思われるが、表鬼門に神社を、裏鬼門に寺を集中させたのは間違いなく意図的な町づくりであろう。さらに外から町への4つの通路には、敵の侵入を食い止める枡形(四角青)が、冨田町、和徳町、紺屋町に設置され、近くに足軽町が形成され、敵の侵入に対してすぐに行動できるようになっていた。南西からの敵の侵入に対しては、長勝寺構えがあり、土塁と壕で守られている。また道は直行して城には行けないようにジグザクになっている。実際の敵からの侵入に対しては、こういった城下自体が要塞化している。

 現在でも家を建てる場合は、方位を気にするひとは多い。ましてや新たな城、城下町を作るには、末長い繁栄を祈念した町作り、とりわけ風水を取り込んだ町作りは江戸時代にあっては当然と言えよう。我々弘前人はこういった風水の守られた街に住んでいるのは自慢できよう。

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