長勝寺の墓所から、松前藩主の墓が見つかったとのニュースが先ほどテレビで放送された。この墓については、明治二年弘前絵図でも確認していたので、1年前に長勝寺に行った折に、墓所をあちこち探したが、見つからず、もうすでにないものと考えていた。先々週、アメリカからお客さんを案内した折に、お寺の方に聞いたところ、実は最近、工事をしている時にたまたま松前藩主の墓が見つかったが、まだ発表していないので、話さないようにと口止めされていた。なんでも亡骸は明治の早い時期に、松前の方に改葬されたようで、墓室のみが今回見つかったようだ。
絵図では、松前志摩守墓となっており、これは松前藩主13代徳広のことである。函館戦争の際、榎本武揚らの軍が北海道に来た時、弘前に逃げてきたが、もともと病弱だったため、ようやくたどり着いた薬王院にて25歳で亡くなった。「弘前藩記事 一」には志摩守受け入れから、葬儀にかけてかなりくわしく書かれており、葬儀の行われた戊辰12月13日のところでは、「松前公葬送暁七時出棺、長勝寺に埋葬、御見送諸手頭鵜飼官兵衞」とあり、長棹、駕篭一丁、袖看板十八枚、駕篭疋18人を弘前藩から借り受けて(駕篭は大道寺族之助のものを使用)、葬儀を行ったことを記している。かなり手厚く藩でも対応したようで、志摩守の妻や長男、勝千代(修広)にも随分、気をつかっている。函館戦争真っ最中であるが、弘前藩としては最大の敬意を示している。
他に長勝寺の墓所には、水野監物墓がある。この水野監物とは久留米藩の水野正名のことで、久留米の難により失脚し、弘前刑務所で明治5年に亡くなった。絵図は明治二年のものであるが、後に記入されたものと思う。水野正名の碑は久留米、篠山神社にあり、その碑文には「翌年十一月九日、病気のために青森県弘前獄中で逝去された。享年五十才であった。親戚の者が遺骸を引き取って同地の長勝寺に葬り、遺髪を久留米隈山の正源寺丘上に埋葬した。」とあり、絵図通り長勝寺に埋葬されたことがはっきしている。
さらに追腹牌というものが、絵図には記載されている。多くの家臣が藩主の死とともに殉死しているが、一番新しいとなると、11代藩主津軽 順承の世子津軽 承祐の死去に伴い、家臣で若殿付近習の舘山源右衞門と大谷津岩五郎が死去の責任を自分にあると思い切腹したが、この場合、追い腹といえるかどうか難しい。その前となると三代藩主津軽信義の死去の折に二人の家臣が追い腹をしたようだが(1655)、あまりに古く、やはり上記、舘山と大谷津の殉死を追い腹として碑を長勝寺に建てたとみたい。
また忠魂塔があるところには、弘前藩の重臣、津軽百助墓となっているが、これは他の場所に移したようだ。また長勝寺の境内も若干建物がなくなっている。
絵図は一次資料としては、非常に重要であり、今回発見された志摩守墓もほぼ絵図と同じ場所で発見されたようである。
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