こういったブログは、無責任に書いているので、専門家からすれば、資料もなく適当なことを書いていると言われれば、それまでだし、事実そうであろう。阿部はなについても、阿部姓は全国でも多く、どこの誰だかは全くわからないし、今のところ資料もない。
前回のブログで、シンシナティーの新聞の記事は、ひょっとしたら阿部はなと須藤かくの両者を間違って書いているのではと、大胆な妄想を述べた。新聞記者がインタビューして本人を間違えることはありえない話だが、全く情報がないため、この妄想を前提に話しを組み立てる。
五所川原の羽野木の阿部家について、本日、弘前図書館で調べてきた。阿部家は五所川原を代表する大地主で、藩にも多くの献金をしてきたので、その見返りとして、勘定小頭格、年頭御目見郷士となっている。つまり士族に準じる扱いとなる。阿部はなが侍の出であるといっても間違いではない。もともとは越前三国より寛永年間に弘前に来て、兄弟の一人は五所川原の羽野木で、もう一方は弘前の元長町で商人をしていた。商人の阿部六郎兵衞は、その後藩御用商人となり、通名を三国屋とし、本町の三国屋久兵衞、桶屋町三国屋八五郎などの名が見える。正式には阿部久兵衞、阿部八五郎となる。一方、羽野木で農業をしていた阿部三佐衞門は次第に地主となり、幕末期、帰田法により危機を迎えるが、その後、次第に大地主となる。11代阿部保助正則の代では41.63町歩を有する大地主となる。さらに12代、阿部賢吉良寿(1847-1913)になると、田畑、宅地、山林121町歩を有する五所川原を代表する地主となり、多額納税者として貴族院議員となる。
阿部家文書に、阿部漸からこの阿部賢吉に宛てた手紙がある(五所川原市史)。内容は漸に対する学費の送金と、父親からの借金として借用書を出すか否かというもので、宛先は神奈川県神奈川高嶋山(現 横浜市神奈川区高島台) 仏国法律偉大博士ボアナード方となっている。明治15年から23年ころの話である。ボアナードとは、明治期のお雇い外人、フランス人のボアソナードのことで、日本近代法の父と呼ばれている。阿部とはかなり懇意の関係であったろう。
調べるとこの阿部漸は明治期の弁護士で、神奈川県出身、フランス語の辞書などを出している。神奈川出身というのは間違いで、五所川原の阿部家の係累であり、出身は五所川原、羽野木ということになる。明治期の政治家、安藤正楽の明治法律学校(明治大学)の同級で、終生の友人だった。ということは阿部漸は、安藤と歳が近いと考えられ、1866年前後の生まれとなる。阿部はなが1869年前後であるとすれば、妹となる。
ここで妄想。阿部家の誰の子が、東京に息子阿部漸を勉学のために送り、その妹阿部はなも一緒に東京、横浜に行ったのではないか。親元は裕福で、今でも大阿部家は多くの江戸時代、明治の名品を持っており、それをケルシー医師に寄贈した。当然、実家は裕福で、学費は十分であるし、後日、生まれは横浜と言われても、兄が実際そうなっているので、さもありなんである。
シンシナティーの新聞では須藤かくの実家にケルシー女医と訪れる場面があり、外人を見たことがなく驚くとなっているが、須藤かくの父親、叔父は熱心なキリスト教徒であり、外人の宣教師とは日常的に接していて、ケルシー女医が自宅を尋ねても驚くことはない。さらに須藤かくの父親は弘前市大浦小路に家があり、青森に行った時も家は造道村、これは海沿いの村であり、mountains Aomoriの記載とは矛盾する。むしろ阿部家のある五所川原の羽野木は山に近い土地である。
一番、気になるのは、武家の娘の須藤かくが着物や九谷焼のカップの由来を述べるとは思えないし、人形遊びをすることはないであろう。それほど弘前藩士は貧困であり、木綿、麻以外の衣類はまず着ることはないであろうし、月琴などの音楽をすることはない。すべて資産家の阿部家に当てはまる。
ここまでは全く、妄想で、Utica NY Saturdayに載っている阿部はなの鮮明な写真が手に入れば、シンシナティーの記事が間違いかはっきりできる。ただUtica 歴史博物館にUtica NY のデータはあるようだが、有料で手続きも面倒なので問い合わせを躊躇している。
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