私が生まれたのは、昭和31年。もはや戦後ではないが、まだみんな貧しい時代であった。一日一日を一生懸命働き、そして生きる時代であった。それでも食うに困る時期は過ぎ、少しずつではあるが、金を稼ぎ、何か楽しいことを夢見る時代でもあった。
私の家は尼崎、東難波町にあり、建坪、10坪の狭い家で、一階は待合室と診療所、そこには2台の歯科用ユニットがあり、その奥に6畳くらいの台所があった。ここで親父、お袋、兄弟3人と、不思議なことに住み込みのお手伝いさんがいた。記憶にはないが、さらに祖母もいたので、都合7人が暮らしていたことになる。
円卓を囲んで、親父以外の家族はここで食事をするのだが、毎日、煮物、魚、小松みどりが歌っていたが、コロッケがごちそうであった。親父は朝9時から働き、患者さんが少なくなった時を見計らって昼食、夕食をとっていた。5分くらいで食べていただろうか。すぐに待たせていた患者さんの治療を再開する。その後、夜の10時ころまで仕事をし、1時間ほど技工をしてから、尼崎の繁華街に消えていく。毎晩、帰りは3、4時で、また働いて、飲む、これの繰り返しであった。
歯医者といえば、金持ちのように思われるかもしれないが、昭和30年代、子供心にサラリーマンはいいなあといつも思っていた。これだけ働いても収入はそれほど多くなかった。お袋も受付をしていたので、子供たちは夕食が終わると、2階に行く。6畳二間で、テレビもなかったので、よく隣のクリーニング屋に見に行ったものだ。テレビが我が家に入ったのは、5歳くらいの時で、2階の一番いい場所に置かれ、普段はカーテンでスクリーンが覆われていた。よほどテレビが珍しかったのか、朝から晩までテレビを見ていた記憶があり、未だにその習慣は続いている。
近所には家の前には、お菓子屋さんがあり、右半分はすべてガラスケースにお菓子が入り、それをハカリで量って売っていた。他の場所にはキャラメル、ドロップ、チューンガムなどが置かれ、店の左側には関東煮のコーナがあり、クジラのベーコンなどを売っていた。隣はクリーニング屋、他には牛乳屋、餅屋、味噌屋、酒屋などがあった。酒屋の奥にはカウンターがあって、スルメや関東煮などをつまみに、労働者が仕事帰りに酒を飲んでいた。いまと違い、人通りも多かったし、店も多かった。未だに残っているのは、散髪屋(ホープ)、薬屋、牧病院(もうすぐ廃院)、朝日新聞集配所くらいで、他の店はすべてない。50年の歳月は長い。
当時、子供はどこで遊んでいたかというと、それぞれグループで縄張りのようなところがあり、多くは舗装されていない横町の小道で、ここでビー玉、ベッタン、こまなどで遊んだ。子供は学校から買えると、ランドセルをうっちゃり、母親から10円をもらい、駄菓子屋で一時遊んだ後、ビー玉、ベッタンなどをもって遊び場に行き、日が暮れるまで遊ぶ。小学校2、3年になると当時、銀玉鉄砲がはやっており、私の場合は、通常のピストルと、いわば機関銃のような大量に撃てるもの、さらには2Bとよばれる一種の火薬で、これはコンクリなどで擦ると着火できる仕組みになっており、手榴弾のような使われ方をした。2Bを相手に投げて逃げるところを銀玉鉄砲で撃つというものである。といっても別に死ぬ訳ではなく、撃った銀玉はできるだけまめに拾う。2Bには、爆発力の強力なタイプも後に販売するようになったが、牛乳瓶が破裂するほどの破壊力で、しばらくすると2Bも銀玉鉄砲も禁止になった。中学になり、神戸、芦屋、西宮の友人に聞いたが、2Bについては、どうやら尼崎、大阪ではやっていたようだ。
2 件のコメント:
私は神戸の西部の方でしたが、昭和20年代後半から30年代前半にかけて、ドンパンという爆発物がはやりました、2B弾もその一種ではなかったでしょうか、特に正月にはそれを鳴らしまくり、道がその爆発のかすで覆われていた記憶があり懐かしいです
私は、小学生の頃この爆発物の火薬を抜き取りそれを何本分もアルミ製の鉛筆キャップ(こんなものいまでもあるのかどうか)に詰め込み、石壁(当時はまだ空襲の焼跡が残っていました)などに投げつけ轟音を楽しみました、キャップは破裂してグニャグニャです、火薬を詰めるのに強い圧力を急に加えると爆発して怪我や失明するので細心の注意を要します
こんな遊びも六中に入ってからはぴたりと止めましたが
神戸の方でもはやっていましたか。今、考えると危険なことをしていましたね。町中が遊ぶところで、子供たちの歓声が聞こえていましたが、最近はあまり子供たちの遊ぶ声も聞こえなくなり、寂しい思いです。
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