「新編明治二年弘前絵図」はほぼ校正も終了し、4月半ばには発刊できそうである。前回は、弘前の紀伊国屋書店のみに本を持ち込み、売ってもらったが、今回は北方新社で発行してもらうので、多くの本屋で取り扱ってもらえる。素人の本がどれだけ売れるかわからないが、前よりは多少ましかなあとは思っている。
原子昭三先生の「津軽奇人伝」はおもしろく、随分とこの本からも引用させていただいた。それでもほとんど人は紹介できなかったので、ここで一部紹介したい。内容は尊敬する原子先生の著書からほぼそのままの引用である。
先日、歯科医師会の会合で、ある先生のお母さんの話がでた。弘前の医者として名高い伊東重の長男の娘にあたる。つまり伊東五一郎の娘となる。
伊東五一郎(1895-1937)は、伊東重の長男として、明治28年(1895年)に生まれた。父親に似て頭のよい子で、弘前中学3年生のころには、叔父のドイツ文学者、伊東基(もとい 1862-1925)に影響されたのか、トルストイ、アルツバーゼフの作品やショーペンハウエルの哲学書を読む早熟な文学青年であった。中学5年生の時には芸者と恋仲になり厭世自殺を図って失敗したこともある。二高、東北帝国大学医学部に進学するが、親分肌の性格は二高、東北大のもめ事をすべて解決したという。
昭和二年に明善寮が完成し、その寮制度について生徒と学校が対立し、二高全校ストライキが発生した。その調停役に選ばれたのが二高先輩の伊東五一郎であった。五一郎が生徒代表に「君たちは何のためにストをやったのか」と聞くと、生徒らは「岡野校長のやり方は我々生徒の自治を弾圧するものです」。伊東は「そりゃだめだ」、生徒「はい、学校長の人格がなっていません」、伊東「それもだめだ」、こんな調子で次々と質問したところ最後の生徒はこういった。「はい校長が気にくわないからです」、伊東「それならよろしい。気にくわないなら仕方ない」。こういった珍問答によって生徒たちは五一郎の調停案を飲んだという。くどくど理屈を言うのが嫌いだった。五一郎は、東北大学卒業後、病理学教室にいくが、ここでもエピソードがある。木村男也教授から、卒業試験で色々と質問を受けるが、酒ばかりのみ、仙台のヤクザとばかり遊んでいたため、答えられない。「チームズ(胸腺)はどこにあるか」と質問されても「それはロンドンにあります」と答える始末で、とうとう教授から「ほんとうは落第だが、病理学教室に入れば卒業させてやる」ということで入局することになった。医局に入っても仙台の親分衆と酒ばかり飲んでいる生活で、そのくせ義侠心が強いので何かもめ事があれば、すぐに駆けつけるというありさまであった。こういった環境に飽き足らず、昭和九年には南満州の錦州市に行き、張学良の叔父にあたる張学相の家にやっかいになりながら、現地の紛争やケンカに顔を出し、知らぬ間に地元の顔役になっていた。その後、熱河省の衛生局長に抜擢されたが、昭和12年に42歳の若さで亡くなった。ここまで原子先生の本を写しているが、よく考えれば東北大学の病理にいたころから伊東五一郎は独身でなく、妻子もいたのである。こんな破天荒な旦那の家族はさぞかし大変であったろうが、それでも満州からの引き上げが早かったため、ソビエト軍の満州侵略による悲劇には会わなかったのは幸いである。葬式は東北大学医学部講堂で盛大に行われたが、講師の経歴でのこういった弔いは大変珍しい。
伊東五一郎は、作家の今東光とは従兄弟同士で、大正の始めころ、作家の芥川龍之介の家に行こうと、同じく従兄弟の画家松井泰と一緒に訪ねた。縁側に通され、ビールを飲んでいたが、飲み足らず、近所の酒屋に買いにいかせ、結局、一人でビール12本も飲み干したという。さすがに芥川も今東光もあきれたようだ。五一郎は今東光の4歳年長、その後の今東光の生き方をみると、従兄弟の五一郎の影響は大きい。伊東五一郎の弟、伊東六十次郎は兄と違い、超真面目な性格で、東京大学の哲学科を卒業し、国家主義に入っていった。このひとのエピソードに戦後、ソビエトの捕虜収容所にいたが、最後まで赤化洗脳に負けず、逆に収容所側が根負けして、建国祭を許可したというものがある。捕虜収容所で天皇陛下万歳を唱えたのだから、筋金入りの国家主義者であった。
1 件のコメント:
私が東北大学にいた時は、古い寮がまだ残っていました。ぼろぼろで、悲惨な状態でしたが、今で言う歴史的建築物扱いでした。飲酒で立ち退きされるとは驚きです。学生の自治権に対する考えが昔と違ってきているのかもしれませ。昔なら当然、ストでしょう。
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