2013年3月31日日曜日

弘前城の風水2


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 前回、弘前城の築城に関わる風水について触れたが、実はこの前読んだ「近世城下町の設計技法 視軸と神秘的な三角形の秘密」(高見敞志著 技報堂出版)に触発されたことによる。この本では城および城下町の設計を視軸と曲尺の比率から解明しており、実に興味深い。内容は難しく、今二回目を読んでいるが、工業大学出身の方で、理解しにくい。主として西日本の城郭について解説しており、できれば弘前城についても、説明してほしかった。 

 とりあえず、高見の手法に沿って、弘前城の天守、昔の五層の天守閣のあった本丸西南部を基点とする。そこから櫓に引いた線を赤で示した。天守閣—未申櫓を延長したラインは視座としては、茂森町の道に一致し、新寺町法源寺当たりに至る。逆方向には、本丸北西にあった三櫓物見に一致する。天守閣—辰巳櫓のラインは、住吉神社に至り、視座としては土手町がこのラインに平行となる。天守閣—丑寅櫓のラインは途中、豊臣秀吉を祭った二の丸、御館神を通り、弘前八幡宮に向かう。 

 次に門との関係を青線で示す。天守閣—亀甲門のラインは、本丸不通門、二の丸隅矢倉を通る。天守閣—賀田門のラインは神明宮に向かう。また天守閣—東門のラインは専修寺に向かい、視座は東長町の道となり、ここの道から東門を見ると、その延長に天守閣が見られる。天守閣—追手門のラインは袋宮寺に向かう。追手門を基点としたヴィスタは本町一丁目の道となる。

  さらに土塀のラインを濃い青で示す。東側土塀を南に延長すると新寺町の報恩寺に当たる。南側の土塀を西に延長すると、かなり距離は長いが羽黒神社、岩木神社に向かう。北川土塀を西に延長すると、旧城の大浦城あたりに向かう。 

 ここまでグーグルマップで色々な線を引いてみたが、もっと多くの線が引けそうであるが、面倒なのでやめた。確かに多くの線がひけ、こじつけであれば、どっかの寺や神社に当たる。ただそういった寺や神社を指標にして設計したのか、あるいは逆に築城後に寺、神社を建てたのか、それとも無関係かは、はっきりとはわからない。少なくとも明治二年絵図では、こういったラインは必ずしも一致せず、1600年ころの測量技術が1860年より進んでいるとは考えにくい。逆にラインに必ずしも乗っていなくても、視座として考え、建築したが、現在の地図上では間違っていたこともあろう。

  こういった築城の謎を探ることは面白いが、かなりこじつけめいた所があり、本来なら天守閣—門、櫓のライン上に神社仏閣を作るとすれば、建物はそのラインに正対するように建てられるが、実際はそうなっていないところが多い。革秀寺や津軽為信霊屋、革彦稲荷神社などは弘前城に正対しているが、八幡神社や最勝院などの大きな神社仏閣でも弘前城とは方位が違う。作られた道に沿って建てられたもので、城の位置を意識したものではない。また視座とは見通して、天守、門、櫓などの施設が3点以上が直線上にあることで、ヴィスタとは街路や水路の突き当たりに天守や主要な櫓、門をおくものをいう。 

 そうは言っても、神社仏閣が建つ位置は、何らかの意味はあり、簡単に移築、廃止するのはやめた方がよい。紺屋町の稲荷神社も、当初はより岩木川に近いところにあり、四ツ堰にあった処刑場の亡くなった人の供養、あるいは岩木川の氾濫防止を願ったものであったと思うが、明治以降も二度ほど南に移転している。これは神社の意味を考えるとよくない。先般、どうなるか心配された弘前東照宮の問題は解決され、昔と同じ場所で保存されることになった。稲荷神社以上に東照宮は方位、風水の関係が大きく、弘前市の安寧を考える上でも、場所を変えるのはよくない。神社仏閣の縁起をよく研究し、こういった方位のこともこじつけかもしれないが、頭に入れておき、万一移転や廃止の場合は思い起こすべきであろう。

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