より大きな地図で 弘前城風水 を表示
本の方も校正が終了して発刊を待つばかりで、することもなく、ばかな思いつきを試している。そのひとつは、弘前城築城のなぞである。
弘前城築城当時のことは、近代史の方が興味があり、全く門外漢だが、ほとんど何もなかったところに二代藩主信牧が城を作ったのは間違いない。戦国時代から江戸初期にかけて全国で多くの城ができ、全くの更地に新たな城、城下町を形成した事例は多い。戦いの場、砦としての性格よりは領地のシンボル、政治の中心としての城が平地に作られ、弘前城もそのひとつであろう。
こういった新たに作られた城および城下町は、適当に作った訳ではなく、綿密な計算の上に建てられた。一般的には、地取り、縄張、普請、作事に別れ、最初に守りやすく、攻めにくい地形を決め、さらに町作りに必要な広さも必要で、これが地取りとなる。そして大まかな候補地が選ばれると、天守閣の位置が最初に決められ、それにそって門や櫓、堀などが決定していく。これを縄張と呼び、砂などで立体的な図面を作成したようである。
天守閣の位置を決めるには、色々なパターンがあったようだが、ひとつに夏至、冬至の日の入り、日の出ラインから、あるいは山、古い神社、寺を結ぶラインから決定した。この作業は、特別な人物がしたようで、候補地から山を見て、あるいは烽火をみて、方位を決定して、天守閣の位置を決め、その後、天守閣から寺や神社の位置を調べて、その線上に門や櫓を決めたり、あるいは新たに寺、神社を作った。
確かに何もないところに、全く新たな町を作れといわれても、何の根拠なく、勝手につくるというわけにはいかない。弘前城、当初は高岡城を作る時にも、何らかの目印を中心に作られたのは間違いない。夏至、冬至の日の出、日の入りを考えると、弘前城が作られた1609年当時の夏至の日の入り方位は岩木山の北側、近くの目印では高地山、冬至の日の出は乳井神社北側、大館山付近となる。この2点を通る直線が、現在の本丸、天守閣(旧、新)を通る。もうひとつは、景色を利用したもので、最も目立つ景色としては岩木山となろう。岩木山は鳥海山、岩木山、岩鬼山の3つの峰で構成されるが、最も高い岩木山が目印になろう。もう一方の点としては、岩木山と並ぶ青森県で最も雄大な景色、十和田湖とすれば岩木山と十和田湖を結ぶ線上の弘前城がある。ただ両者の距離があまり長いため、十和田湖のどの地点を取るかで、天守閣の位置は変わってくる。どこか途中の点が必要であろう。ただ十和田湖と弘前城との位置関係は、測量した地図がなくても、時間を決めて烽火などをあげると求めることはできよう。さらに岩木山、(大浦城)、弘前城、十和田湖を結んだラインを延長すると、何と藩祖津軽為信の出身、久慈家の居城、久慈城に繋がる。これは偶然とは思えるが、ここまで考えたのであればすごい。一方、これと直交するラインを探してみると、久渡寺山と梵珠山を結ぶ線が考えられるが、交点は天守閣の南西方向となる。
天守はかって今の天守閣の西にあったが、正確な位置をどうやってきめたのか、わからない。それでも現在の弘前駅前のホテル、マンションから、弘前城天守を見ると、その先に岩木山山頂が見え、逆の方向、これは全く見えないが、そこのは十和田湖、さらにその先には久慈があること言えそうである。
弘前城の土塀、基本的な枠組みを見ると、岩木山—十和田湖ラインに比べてやや反時計周りに10度くらい回転した形になっている。むしろ岩木神社と天守を結んだラインに直交した形となっている。
天守からの門、櫓の配置についても、何らかの法則があるようだが、これについてはもっと検討してみる。
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