数学というと私にとっては、名前を聞くだけで躊躇してしまう分野である。中学受験くらいまではそれほど、苦手意識はなかったが、中高になるとずば抜けた数学の才能を持つ級友を見るにつけ、自分の才能のなさを痛感させられた。
江戸時代、弘前の藩校稽古館でも儒教の科目だけでなく、算術の科目もあり、数学学頭、傍学頭(副)がいた。藩の財務に数学が必要だっただけでなく、暦の製作あるいは測量に数学の知識が必要だったからである。特に測量は、土木工事、検地にも必要な技術であるため、信政時代には、わざわざ金沢藩お抱えの測量術師範、金沢勘右衛門を150石で召し抱えた。数学の才能は世襲できないのか、その後、測量術師範は、石郷岡八九郎、外崎十郎右衛門、外崎三太郎と続いた。
稽古館の初代の数学学頭は、中田勇蔵(−1834)という人物で、稽古館暦の弘前分間図の製作にたずさわり、幕末期には笹森町に家があった。さらに幕末期の稽古館の数学学頭は福士助太郎武孝、添学頭は相馬吉之助孝恭、新屋源次郎由高がいる。相馬吉之助孝恭は、幕末期に全40巻にも及ぶ「算法活機」、「算法求積活機」などの和算および洋算の本を執筆し、維新後は東奥義塾の数学教師をしていたという。また新屋源次郎は、新谷源二郎の名で山道町にその名が見られるが、同一人物で、その孫の新屋茂樹(1886-)は青森縣第一中学校、早稲田大学、東京日々新聞社、大阪毎日新聞の記者を経て、近衛文麿の秘書となる。また佐藤正行(1817-1883)という人物は、江戸軍艦操練所で測量、洋算を学び、帰郷して家塾「六合館」を開き、維新後にはこれも東奥義塾の数学教授頭をしていた。
さらに奈良茂智という数学者もいて、東京の攻玉社陸地測量習練所の教官などを勤めた。人物履歴については不明であるが、おそらく攻玉社設立者近藤眞琴の友人で、攻玉社に勤めていた山澄直清(吉蔵)に誘われたものと思う。さらに中舘広之進という、おそらく白狐寺門前に住む中舘喜十郎の息子が、明治13年に上京して、測量学校開設と同時に入学している。授業はなかなか難しく、結局卒業したのは15名で、卒業生は陸軍参謀本部、鉄道局などに勤務したが、中舘広之助は故郷に帰り、東奥義塾の数学教師となった。ちなみに広之助の長男、中舘久平(1898-1963)は県立弘前中学校、慶応大学医学部に進学し、法医学の権威として下山事件などの検死を行った。
攻玉社測量習練所の教官を見ると、先に述べた山澄直清、奈良茂智の他、笹森清定という人物がいる。幕末期に弘前藩から測量術取得にため上京した青年の中に山澄吉蔵(直清)の他に笹森銀蔵という人物がいる。どうもこの笹森銀蔵=笹森清定という気がしてならない。となると5名の教官の内、3名が弘前藩出身ということになり、攻玉社と弘前の結びつきは強い。さらにいうと地理局測量課の弘前藩出身の三浦清俊(才助)、山澄直清、そしてこの笹森清定は、“清”という字が共通する。三浦、山澄は明治後にそれぞれ才助、吉蔵から改名しているが、何か共通点があるのかもしれない。
こうして見ると、東奥義塾の教師は英語教師のみならず、数学教師も当時では少ない西洋数学を知る人物が教師であり、レベルはかなり高かったと思われる。
夢枕獏著「大江戸釣客伝」(講談社文庫)を読んだが、主人公として黒石藩主の津軽采女と釣りに誘い込む付き人として兼松伴太夫が登場する。兼松家の2代目の兼松伴太夫久融のことと思われるが、小説の土台となっている日本初の釣りの本、「河羨録」について原本は残っておらず、写本末尾に「享保十七年 兼松七郎右衛門殿より」借りたとのことを記載があり、兼松伴太夫を七郎右衛門と同一人物としている。兼松家の家系を見ると、四代目に兼松七郎右衛門久容という人物がいるが、時代からすれば伴太夫久融でいいであろう。ちなみに兼松石居の兄の名前も兼松伴太夫久通という。
2 件のコメント:
いつも拝読いたしております。
恐縮ですが、最後の段落に誤植が数箇所見受けられました。
例えば、荒俣獏→夢枕獏など・・。
再校正をお願いします。
ご指摘ありがとうございます。他の部分も含めて修正いたしました。義塾の教師について調べていますが、英語、漢学のみならず、数学でも非常にレベルの高い教師を揃えていて、全国的にも教育内容は高かったと思います。
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