2013年8月17日土曜日

聖愛高校がんばれ

 弘前学院聖愛高校が夏の甲子園に出場して、二回戦を突破した。男女共学となって11年、どちらかというと女子校のイメージが強い学校だけに、この快挙はうれしい。弘前学院聖愛高校といっても知名度はないが、実は創立は明治19年(1886)なので、今年で127年目となる。東北でも宮城学院と創立は同じで、古い女子校である。関東以北で最も古い学校は北海道、函館の遺愛女学校で、創立は明治15年、弘前学院ができたのは、その後4年経ってからである。アメリカの宣教師が函館に女子教育の機関として遺愛女学校を作ったが、新興町の函館ではキリスト教への拒否感が強く、生徒が集まらず、遺愛女学校の1、2回生のほとんどは弘前からの生徒であった。そこで、わざわざ函館まで行くのは、大変ということで地元の有志によって作られたのが弘前学院である。旧弘前藩の士族を中心に教育熱心なところであり、本多庸一の存在もあり、早い時期からキリスト教への同化があったようだ。その後、青森県立師範学校、女学校などができたため、どちらかというとお嬢さん校として歴史が続いた。最近は中等部を作り、一部中高一貫となり、スポーツは甲子園の出場、有名大学への進学も高まった。結果が出て来たようで、こういった歴史のある学校が再び脚光をあびることはうれしい。数年前に弘前ロータリクラブで、高齢者のお宅の雪下ろしに、聖愛高校の野球部に手伝ってもらったが、礼儀正しく、一時、このボランティア活動は、市民に賞賛され、東奥日報の明鏡欄でも取り上げられた。監督の指導が徹底している。

 話が変わるが、知人より「攻玉社 百五十年史 人物誌」という本をいただいた。ありがたいことである。東京の攻玉社中学・高等学校の本である。攻玉社は近藤眞琴が文久3年に創立した日本でも歴史のある私立学校で、鈴木貫太郎はじめ、海軍大将15名、海軍中将69名を輩出した海軍予備校として有名であった。開設当初から弘前とは関係の深い学校であり、弘前藩士の山澄直清は副社長を、藤田潜は校長を、他にも加藤三吾、渋江抽斎の長男、渋江保、数学者の奈良茂智、出町良蔵など、明治3年から20年間だけでも、青森県出身の先生が13名、生徒が51名いたという。

 戦後は、軍人の学校ということで、かっての栄光はなくなり、有名大学への進学も低迷した。ここで攻玉社のとった方法は、中高一貫教育と英語教育を中心とした国際化である。平成元年から高校の生徒募集を中止し、帰国子弟の受け入れ先の国際学級を開設し、早慶合格100名を目標として多くの受験カリキュラムを組んで、進学実績を高めようとした。その結果、昭和61年では東大1名、慶応9名、早稲田10名だったのが、平成7年では東大5名、慶応46名、早稲田54名と目標を達成し、さらに平成24年では東大19名、慶応92名、早稲田124名と進学実績はさらに高まった。生徒数は昭和61年が225名、平成24年が240名で、総数はそれほど変化なく、学校自体が進学校として完全に復活したと言えよう。

 私立学校は出生率の低下に伴い、ますます経営が困難となっている。攻玉社の中高一貫と英語教育を中心として教育手法はひとつの方法といえよう。高校野球の出場、勝利を勉強に置き換えれば、東大など有名大学への進学と言えよう。いわゆる勉強部とみなせば、弘前学院聖愛中学、高等学校やさらに歴史の古い東奥義塾も今回の聖愛高校の野球に見習い、指導者の熱心な指導があれば、進学校への復活は十分に可能であろう。常々思うのは、受験もスポーツも一種の部活度と見なせば、生徒の才能だけでなく、基本手技の取得、日常生活のしつけ、練習時間(学習時間)、経験、模倣など、共通点は多い。

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