2014年7月5日土曜日

東奥義塾の特徴





 昨日、東奥義塾経済塾友会の講演に招かれ、話してきました。かなりきわどい話をしましたが、どうだったのでしょうか。義塾ファンの私としては、厳しい状況ですが、何とか再興するように祈念しています。
講演内容の一部紹介します。


東奥義塾の特徴
  私立
1.      創立者の菊池九郎は「教育本来の目的は精神的自由教育を旗幟(きし)を擁して人物の養成を期する」とし、政府の意向とは関係ない自由闊達な教育を目指した。さらに「優勝劣敗の原理に基きて浮沈するを以て、之を書生の選択、父兄の取捨に一任」と会社と同じような厳しい考えを持っていた。
2.      自由な教育カリキュラム 1.慶応義塾に準じた講義 2.アメリカの短大相当の内容 3. 英語教育(外国人教師) 4. 文学社会(弁論) 5. 文化活動(社会への)
3.      財政的な問題
明治10年の歳入3393円のうち、3000円(現在価値で約3000万円)が津軽家からの援助、残りはその他有志者の寄付および入社料授業料となっており、学校経費の9割近くを津軽家補助金に負っている。
ーー> 殿様の学校、永続的な財政問題
    「洋学受容と地方の近代:北原かな子 より」
  藩校
1.      明治以降に藩校から移行した学校は多くあるが、私立に移行したのは広島の修道中学・高校(創立1725年)に次ぐものである。稽古館創立の1796年から数えて218年、東奥義塾となって142年で、東北では一番古い私学校になる。純粋なキリスト教学校でないため、宗教色は初期から薄い。儒学的な教育も多い。
2.      東奥義塾の図書館は蔵書数71000冊で、日本でも屈指の多さである。さらに稽古館時代の貴重書5000冊を引き継ぎ、明治初期の洋書と併せて高校図書館としては内容の非常にレベルが高い。内外研究者による利用も多い。ちなみに青森高校の蔵書数は27000冊、平均的な高校蔵書数は23000

 ・キリスト教
1. メソジストの宣教師を外国人教師として迎えたので、明治10年に珍田捨巳、川村敬三、佐藤愛麿、那須泉の4人がインディアナのデポー大学へ、さらに明治18年には笹森卯一郎、益子恵之助、高杉栄次郎の3人がデポー大学に留学している。デポー大学はメソジスト派によって運営された大学で、すべてイングによる仲介である明治期、私学からのこれほど大量の留学生は珍しい。
2.       キリスト教関係者は、本多庸一、ホーリスト教会を設立した中田重治、青山学院第三代理事長の平田平三、山鹿旗之進、長崎鎮西学院校長の笹森卯一郎など、多くの牧師を育てた。また弘前愛成園を作った慈善家の佐々木五三郎や養生会を作った伊東重などもいて、キリスト教の精神は影響した

・英語
1.            義塾の英語教育のレベルは非常に高く、留学生の多くは英語に困ることはなく、優等な成績で大学を卒業している。伊東重、生物学者の岩川友太郎らも東京大学入学後、英語の成績がよく、授業免除となっている。珍田捨巳も外務省きっての英語の達人とされた。
2.            通常、地方から海外に留学する場合、東京に一旦出てから海外に留学するが、義塾の卒業生は、青森からいきなり海外(アメリカ)を目指した。義塾からアメリカに留学したものは約40名、逆にアメリカから弘前に来た宣教師は34名にのぼった。これも英語力に自信があったからであろう。

  慶応義塾との関連
1. 山鹿旗之進の回想によれば「義塾という名称は、福沢先生と小幡篤次郎先生とが、命名されたものであろうとは、私が嘗て菊池九郎先生より承ったことだ。」永嶋貞次郎、吉川泰次郎の二名が慶応義塾より派遣。菊池九郎、佐藤弥六、成田五十穂、寺井純司、須藤寛平など福澤塾出身者が教師。
 「福澤流の実学精神にキリスト教が結合した」
明治期、京都慶応義塾、大阪慶応義塾、徳島慶応義塾など義塾の名を冠した学校が百数十あったが、現在残るのは東奥義塾のみである。

  青山学院との関連
1.            青山学院の初代院長はMaclay(1883-1887)であるが、二代院長本多は1890-1907という17年の長きにわたり院長を努め実質的な創設者である。青山学院と弘前の関係は深く、第六代阿部義宗、第7代笹森順造ら、さらには第10代古坂嵓城(両親が弘前出身)も弘前出身である。
2.            山鹿旗之進と平田平三は青山学院最初の学生である。また東京英和学校神学科に入学した5人の中のうち、東奥義塾出身者は平田と山鹿と山田虎之助の3人が占めた。
3.            笹森順造、兄の浅田良逸陸軍中将は戦時下の青山学院を支えた。青山学院初等部緑岡小学校は昭和20に弘前に疎開

・米国からの留学生
 ロサンジェルスに住む日系人の間に自分の子供を日本に留学させたいと考える親が多かった。笹森順造は「義塾を出れば日本の官吏になれるし、卒業後アメリカの大学を出れば、日米両国で就職が可能だ」と、さらに授業料も1ヶ月20ドルで生活できると強調した。昭和4年に藤岡紫朗を中心にアメリカで東奥義塾「維持会」が組織され、藤岡の息子など四名がアメリカから義塾に入学した。
遠山経之、三郎(盛岡)、長谷川晃(静岡)、蟹江米男(熊本)、門松正男(鹿児島)、幸前正久(和歌山)、藤岡俊朗(青森)

  ボランティア活動
 義塾のボランティア活動団体として「東奥聖社」がある。笹森順造により1927年に創立された生徒宗教部で、現在、87年の歴史を持つ。
古くは岩木山麓での託児所における幼児救援活動(1934)やヒロシマ平和学習、阪神大震災復興活動、四川地震救援活動などを行っている。
高校生のボランティア活動団体としては日本でも古い。







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