今朝の火野正平さんの『にっぽん縦断 こころ旅』を見ていますと、旭川の旭橋がでていました。戦争中の空襲にも耐え、今や旭川のシンボルとなっています。この橋の設計者が北海道大学の橋梁学の権威、吉町太一郎教授です。このブログでよく引用する、青森県人名大辞典によれば、
吉町太郎一(よしまち たろういち)
明治六年〜昭和三十六年(1973-1961)弘前市新寺町出身、藩士吉町官助の子。幼にして父に随い上京。苦学力行して第一高等学校から東京大学工学部に入学。金属学を専攻して、明治三十一年卒業。同時に同学部助教授になり、明治三十四年欧州へ留学。三十七年に帰朝して、名古屋高等工業学校教授、転じて九州大学工学部教授となった。大正十三年北海道大学に工学部設立のさい迎えられて同学部教授。ついで同学部長となり、昭和十一年退官して北海道大学名誉教授の称号をうけた。
大学卒業後、すぐに助教授、そして欧州留学と、非常に優秀な学生だったのでしょう。吉町という名は弘前では珍しい名ですが、浪岡北畠家の家臣、四天王の一人に、吉町弥右衛門がいます。浪岡北畠家は弘前藩初代藩主の津軽為信による天正六年(1578)によって滅ぼされ、吉町弥右衛門もその後に討たれたました。『弘藩明治一統誌 勤仕録』によると、信牧の代に吉町左五右衛門が仕えたとあります。吉町家の誰かがこの時に士官したのでしょう。明治二年弘前絵図では新寺町の白狐寺門前に父親、吉町官助の名があります。ホーリスト教会で有名な中田久吉の家はすぐ近所です。弘前藩の藩士の禄はある程度、住む所で決まっていましたので、吉町家は下級士族であったのでしょう。維新後は、こういった下級士族が最も影響を受け、貧窮のうちに東京、北海道に移住することが多くありました。吉町太郎一も6歳の時に上京したといいますから、明治12年ごろだったのでしょう。苦学力行してとありますが、どの学校から一高に入ったかはわかりません。弘前からに一般的な流れとしては、弘前出身者の多い攻玉社に入学するケースが多く見られます。その可能性もあります。
本日、診療所休みでしたので、暑い中、最勝院に行って益子家の墓を探しましたが、見つかりませんでした。昔の本に記載されている墓でも、実際に行くともうなくなっていたという経験はこれまでも何度もあります。お寺の方もお参りする人がいないと、ある程度整理するのでしょう。構内には木村藹吉の碑文がありましたが、これなどしぶいところです。
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