2014年7月18日金曜日

黒石藩の益子家


 9月には弘前大学のシニアカレッジがあり、そろそろ準備をしなくてはいけないが、まだ全く何もしていない。何とかなるでしょう。
 先日、外交官、珍田捨巳に連なる関係者からメールがあり、いただいた資料にある黒石藩士、益子家が気になってしょうがない。益子の姓は津軽では珍しく、現在、青森県に住む益子姓は4人としかいない。著名な人物として益子愛太郎、益子恵之助、益子勇などがいるが、同族の可能性が高い。黒石の人には何度か、益子家について聞いたりしたが、誰も知らず、関係者は黒石に住んでいないのだろう。

1。    益子愛太郎(1882-1968
初め東奥義塾に学び、後に高等学校を経て、東京帝国大学工科(機械工学)に入り、卒業後、鐘ヶ淵紡績会社(カネボウ)の技師として勤務し、最終的には重役となる。ハイカラな人物で、絵、写真、謡などを趣味としていた。とりわけ写真はプロはだしで、その作品の一部は東京都写真美術館に所蔵されている。1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進の母方の祖父となる。進の母、美世子の父となる。名古屋に住んだ。
2.      益子恵之助(1866-1941
黒石藩士の出。弘前市笹森町に居住。明治18年に東奥義塾を卒業後、笹森卯一郎、高杉栄次郎らとアメリカのデポー大学に留学し、明治25年に帰国して弘前教会の副牧師をしながら東奥義塾の教壇に立つ。その後、各地の公立中学校の校長を歴任し、秋田県本庄中学校長を最後に明治末年に教職を引退し、帰郷し、弘前女学校の教頭、青森県青年団の結成に努力した。
3.      益子 梓(1894−?)
益子恵之助の長男、弘前教会青年会長、東京帝国大学法科を卒業後、鉄道省勤務。日本食堂社長、鉄友会社長。
4.      益子 勇(1898-1932
益子恵之助の次男。弘前中学校をへて陸軍士官学校に入学。大正10年に少尉に任官して歩兵第31連隊に勤務し、戸山学校に派遣された。中央アジアの国際情勢に志をよせ、回教徒政策の指導者、田中逸平の影響を受け、昭和5年に退役して回教徒連盟運動に挺身の決意を固めた。エジプトのカイロにあるアズハル大学に入学したが、排日的中国学生と衝突したり、アレクサンドリアでアラビア人と事を構えて負傷したこともあった。昭和72月に、イラン、テヘランに旅行したときに病気となり同地で客死した。その郊外に墓がある。

5。益子力太郎(りきたろう 1850-?)
黒石藩士の家に生まれる。戊辰戦争では20歳で馬門戦争に参加、後に県会議員を一期、南津軽中郷村長(黒石市)を一期、勤めた。

珍田捨巳の父、有孚は野呂謙吾の長男、直太朗の事だが(養子)、野呂謙吾もまた佐藤家から野呂家への養子であった。四人兄弟で、兄、佐藤虎之助の子が清衛で、明治二年絵図では鷹匠町にその名が見える。また野呂謙吾の名は御徒町にある。佐藤清衛の養子となるのが、外交官の佐藤愛麿である。次男、佐藤謙吾は野呂家に養子に行き、三男が黒石藩益子氏を相続する。四男の次太郎は五十石町に分家する。益子家を継いだ三男については名がわからない。

益子の名は、享保年間の平目付に益子武兵衛の名が、延享年間の代官に益子八左衛門、天明年間に役人として益子久兵衛、函館戦争出征藩士として益子力太郎、明治三年黒石藩職制の隊長(物頭)准格に益子央、一等銃隊に益子力太郎の名がある。益子家は古い時代から黒石藩に仕えた武家であった。

もう少し調べればわかるかもしれないが、益子央、力太郎、恵之助、愛太郎の関係がはっきりしない。年齢から推測すると、佐藤家の三男が益子央、その長男が益子力太郎、弟が益子恵之助、そして力太郎の子が愛太郎、恵之助の子が梓と勇となるのか。どういった関係かは今後調査したい。いずれにしても、黒石の益子家より利根川進というノーベル賞学者が出たのは間違いない。また益子勇の記念碑が最勝院にあるようなので、一度調査に行きたい。

呼子鳥(かっこう)ただにな鳴きそテヘランの
もりのしげみにいぶきなけやも

7/20  本日、図書館で調べましたが、黒石藩の資料は少なく、収穫はほとんどありませんでした。益子家は黒石藩初代、津軽信英が江戸出身の益子忠右衛門を召し抱えたのが始まりのようです。家は黒石陣屋から大手門を通り、上町にいく道の右側、札札があった所の手前です。隣には鳴海、前には加藤、小枝の家があります。また益子力太郎は明治24年5月から明治25年5月まで中郷村の村長をしています。
7/21 弘前藩記事一に野辺地戦争の戦地から益子雄太郎という人物が報告を送っています。この雄太郎が益子央と同一人物か、別人かはわかりません。

8/4   最勝院に行って、益子勇の墓を探しましたが、ありません。墓は残っていそうで、訪れる人もない墓は逐次、処分されています。

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