弘前城の石垣修復工事が平成26年ころから本格的に開始されます。現在は発掘調査が行われ、これまでの修復経過を調査しています。天守閣下の内堀を埋め立て、天守閣自体も一旦移動して、石垣の修復が行われます。10年がかりの工事です。
明治二年絵図を見ると、天守閣の横には腰掛屯所と見張所があります。どういったものかはっきりしませんが、腰掛屯所は登城した侍の家来、中間が待機したところだと思います。ある程度以上の格の侍となると登城の折には、家来を引き連れて城内に入り、主人が本丸で執務をしている間、この腰掛屯所で待っていたのでしょう。あるいは、中門の手前にある腰掛屯所と同じく、門番が詰めていたところかもしれません。見張所も同じように、城内警護の役人、与力あるいは門番などがここに詰めていたのでしょう。おそらく、この部屋は板張り、障子、板戸のきちんとした部屋だったのでしょう。どういった大きさ、構造だったかは、図面がないため、全くわかりませんが、長さは長いものの幅はそれほど広くない部屋と想像されます。柱の位置などは発掘調査でわかると思いますので、是非とも今回の調査で解明してほしいところです。
弘前市役所が発表した明治初期の弘前城の写真があります。今の内堀にそって白い土塀が続きます。これを見ると白土塀の高さが二段になっていることがわかります。さらに言うと、はっきりしませんが、高い方の白土塀はきちんとした屋根があるのに対して、低い方の白土塀は簡単な屋根覆いがあるだけです。屋根は天守閣と同じ銅瓦だったと思われます。見張所は井戸があった手前ですので、ここまでが高い白土塀で、ここから先は低い土塀なのでしょう。ただこの先は陸尺詰所となっており、再びここで白土塀が高くなったかは写真がないのでわかりません。腰掛屯所、見張所が天守閣に続く構成となっているのなら、陸色詰所は形態的には低い白土塀の方が合っています。
いずれにしても本丸東側を十分に発掘調査することで、大体の建築物の構成はわかるのではないでしょうか。現在、二の丸、東内門の見張所(与力番所)が残っています。小さな建物ですが、絵図上の八寸角塀からは離れて建てられた独立した建物です。天守閣に続く白土塀に腰掛屯所、見張所が一体化したものか、独立したものかは、今回の発掘調査で柱跡などを調べることである程度わかるのではないでしょうか。個人的には一体化した建物のように思えます。
いずれにしても、弘前城の美観からすれば、天守閣に続く白い土塀は美しいもので、西側は岩木山の眺望から土塀がないほうがいいのですが、東側はむしろ白土塀で囲んだ方が景観的にも優れていると思います。今回の石垣修復に合わせて白土塀の復元もしてほしいところです。
ただ文化庁の復元工事は、かなりはっきりした証拠、図面がなければ許可されず、本丸御殿の再現は資料不足のため許可がおりなかったようです。白土塀の復元にしても明治初期の数枚の写真はありますが、不鮮明で、この10年の間に新たな資料が見つからなければ、発掘調査と写真だけでは許可されないかもしれません。資料をお持ちの方は是非、ご協力いただきたいと思います。明治二年弘前絵図も150年ぶりに見つかったことを考えると新たな資料もまた蔵にしまわれたままの可能性もあります。
2 件のコメント:
復元城郭模型で見る日本の名城・甲冑屋です。 画像は出展先名とリンクを付けて頂ければ構いませんので、宜しかったらお使い下さい。
ご許可いただきありがとうございます。個人的には天守閣だけでなく、白土塀があった方が美しいと思います。資料が少なく実現は難しいと思いますが、関係者に図ってみます。
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