2015年4月2日木曜日

今幹斎 今和次郎、純三兄弟の祖父、今裕の父


 今(こん)という苗字は、津軽では多く、それほど珍しい姓ではないが、全国的には未だに“いま”と呼ばれることが多い。逆に言えば、今という姓を持つ人は、そのルーツを津軽にあると考えてもよかろう。北海道にも今の名前は多いが、大半は津軽からの移住であろう。同様なことは、三上、神といった苗字も当てはまる。

 今という名の有名人は、小説家の今東光、弟の今日出海、考現学を作った今和次郎、その弟で版画画家の今純三、北海道帝国大学総長で、学士院賞をとった病理学者、今裕などが挙げられる。これらの今の中心となる人物として“今幹斎”がいる。「青森県人名大辞典」(東奥日報社、昭和44年)によれば

今幹斎(こん かんさい)
天保四〜明治二十五年(1833-1892) 幕末の津軽藩侍医。名は弘貞、字君栗、通称敬一、幹斎または猶存と号す。江戸に出て幕府医官多紀氏に学ぶ。詩文をよくし、「幹斎遺稿」(明治31刊)がある。没年60。北海道大学総長今裕はその二子

 また「兼松石居先生伝」(森林助、神書店、昭和6年)では
今幹斎は寛貞、敬一と称した。字は君栗、幹斎又は猶存と号した。弘前藩侍医である。詩文を能くし、立所に名詩を賦すので名高い。石居とは親友である。かって猶存が蔵館温泉にあるや石居の寄せた詩がある 略
明治二十五年二月七日歿す。享年六十。藤先寺の墓地に葬る。遺稿には「幹斎遺稿」が有る。同三十一年十月発行されている。今の医学博士今裕氏はこの二男である。同氏から著者への書状にも「父は常に石居翁の事をよく談っていた」と見えている。

「津軽の文化誌V」(松木明知、津軽書房、2012)に明治二年分限帳に見られる弘前藩医の中に「今春碩(はるせき)」の名があるが、今幹斎のことである。森鴎外の「渋江抽斎」に登場する。

 青森県人名大辞典は森林助の記述によったのであろう。ただ今裕については「近代名士家系大観」(http://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-11836016826.html)によれば

今裕 従三位勲二等 明治11、旧弘前藩典医・今敬一八男
二高医科 医学博士 医学者、北海道帝国大学総長 民俗学者・今和次郎、版画家・今純三は甥

 ここでは今裕は八男となっている。今裕は明治11年〜昭和29年(1878-1954)なので、今幹斎が45歳の時の子供となる。今和次郎、今純三の甥ということは父親の成男は今裕の兄弟になる。

 さらに「建築外の思考—今和次郎論」(黒石いずみ、ドメス出版、2000)によれば

1888(明治二一)年、今和次郎は弘前市代官町で医めていた今成男、きよの次男として生まれた。今家は代々津藩の典医をめる家柄だったが、1906年一家をげて上京し、京四谷大番町に居住して医院を開業した。今和次郎の弟、三の娘マリによると、成男の患者が死に、その族が逆恨みをしてひどい嫌がらせをしたために居たたまれなくなったことが上京のひとつの原因だそうである。
しかし、1911年に成男は病没し、一家は経済的に困な状る。のちに三が弘前にではなく青森にったのも、この上京の辛い思い出によるものかと思われる。
和次郎の弟子のによると、和次郎は故してあるの距感を持っていて、してらなかったという。今は、一八という多感な期に、当村に根深く存在した古いコミュニティの非合理的で残酷な人間関係によって深くつけられたにいない。」

 これによれば今成男の没年は明治44年(1911)であることがわかる。津軽の風土として他人への中傷がある。

 さらに武庫川女子大学の柴田清継教授によれば、『鷗盟集』(弘前吟社大正9年)という日本漢籍に今成男のことが書かれている

桐林今成男別号自適園主人安政六年三月一日生
幹斎翁男夙承家学業三折肱為木造病院長弘前医師会長尽瘁斡旋之功不尠平生寡言酔則酣暢善謔詩概真摯清穏佳構頗多洵不愧為其箕裘也明治三十九年移居東京無幾而歿享齢五十三

 大意は、今成男は安政六年(1859)今幹斎の息子で、その医業を継ぎ、色んな苦労もあり三度、変遷して、木造病院長や弘前医師会長などをして明治39 年に東京に転居して、ほどなく亡くなった。

 今和次郎は弘前市百石町、今純三は代官町生まれで、今成男も当初、百石町で医院を開業し、その後、代官町に移り、そして木造病院長、東京に転居したのであろう。黒石いずみの言うように、頻繁な転居には様々な苦労があったと推察される。いずれにしても今成男の生年は、安政六年—明治44年(1859-1911)となる。今成男は今幹斎、26歳の時の子、今裕は45歳の時の子だとすれば、成男と裕は19歳違いの兄弟となる。ちなみに藤先寺にある今幹斎の墓には今栄八の名が刻まれ、栄八が幹斎の息子だとすれば、今幹斎には3人以上の息子がいたことになる。「青森県大人名事典」、「兼松石居先生伝」の記述は間違いとなり、「近代名士家系大観」が正しいことになる。

 これまではっきりしなかったが、種々の文献より、弘前藩侍医今幹斎(春碩、敬一)の息子は二人とも医業を継ぎ、長兄の成男の息子が今和次郎、純三兄弟、弟の裕は病理学者となった。

*5/3 その後の調査で、今幹斎には七男がいたようだ。長男:太仲(成男)、二男:祐次郎、三男:又四郎(早世)、四男:祐五郎、五男:良輔、六男:栄八、七男:裕
住所は弘前、東長町43番地であった。

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