2015年10月11日日曜日

須藤かく、阿部はな 外国旅券下付表




 アメリカの医学校を卒業した明治期の女医、須藤かく、阿部はなについて、色々と調べているが、あまり大きな収穫はない。

 明治期の出国した日本人は、外務省に記録があるため、そうした資料を検索していたところ、国立公文書館、アジア歴史資料センターに“外国旅券下付表”が見つかった。明治21年1月から明治24年3月までの旅券発行者の氏名、出身などが記載されている。須藤かくと阿部はながアメリカに留学したのが、1891年、明治24年であるため、この表に載っているのではないかと探した。そうすると須藤かく、阿部はなの記載があったので、報告したい。

まず阿部はなについては

旅券番号:  31763
氏名: 阿部ハナ
身分: 本県平民(神奈川県?) 
本籍地:久良岐郡中村1491 岩間巳之助方
年齢: 24.2 (242か月のことか)
渡航地名: 米国
渡航目的: 留学
下付月日: 明治24年1月17

次に須藤かくについては

旅券番号: 30402
氏名: 須藤カク
身分: 青森士族
本籍地: 横浜市本町1-7 日下部金兵衛方
年齢: 27.2
渡航地: 米国
渡航目的: 留学
下付月日: 明治24117日?

 阿部はなの本籍地の久良岐郡中村1491は、現在の横浜市南区の東部にあたり、中村川の右岸、堀割川の左岸となる。岩間巳之助については、阿部はなの親類筋になるのか、不明である。帰国後の住所は横浜市仲村町1557(日本杏林要覧、明治42年の)となっていて、須藤かくも同じ住所となっている。須藤かくの本籍地の横浜市本町1-7、日下部金兵衛については、ウィキペディアに紹介されている。山梨県出身の明治初期の写真家で、横浜を拠点として活躍した。明治22年に本店を本町通1-7に移したようで、ここの住所が須藤かくの本籍地となっている。日下部金兵衛は、弘前出身の青山学院院長であった本多庸一が洗礼をうけた横浜海岸教会の会員であり、熱心な信徒であったため、横浜共立女学校に通っていた須藤かくを写真館に住まわしたのだろう。

 外国旅券下付表をみると、身分では“本県平民”となっているケースが非常に多い。幕末まで100戸足らずの寒村であった横浜の成り立ちを考えると、海外に渡航前に単に横浜に住んでいただけで“本県平民”としたのかもしれない。「横浜紳士録」(明治12年、1881)では、灰商部に阿部平助(扇町)と乾物商に岩間虎吉(松影町)があるが、これが阿部はな、あるいは岩間巳之助と関係あるのかは何とも言えない。

11/29: その後、横浜市史資料室に問い合わせたところ、わざわざ横浜開港資料館に転送いただき感謝いたします。開港資料館でも阿部ハナの本籍地についてははっきりわからないとのことでした。
横浜の明治、大正、昭和の地図を見ると、久良岐郡中村の範囲は広く、中村町でも千桁の番地がある。ただその順序は不定形で、阿部ハナの本籍”久良岐郡中村1449”を”中村町1449”と考えると、現在の打越町の南側となる。阿部が通学していた共立女学校からは近く、ここがたまたま実家とは考えにくい。東奥義塾の教師をしていたドレーバー博士夫人が明治22年(1889)に中村町53に”盲人福音会”を作ったことや、後年、中村愛児園が近くにできたことからも、阿部はなは学校近くに拠点をおいて何らかの慈善活動をしていたのではと推測する。

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