佐々木到一
山田良政、純三郎兄弟はじめ、孫文の中国革命に協力した日本人は多い。こうした人物がいながら、どうして日本は最後まで孫文率いる国民党を支持しなかったのか、不思議に思っていた。黄輿、宋教仁、胡漢民、陳其美、蒋介石など国民党の重臣の多くは日本に留学しており、当初は彼等の日本への期待も高かった。ただ孫文らが日本へ亡命していた時は、軍部、政府からは常に監視される側であり、政府、軍部はあくまで袁世凱や段祺瑞などの北方軍閥と手を握った。このことが結果として日中戦争、大東亜戦争に発展していく。もしということで言えば、日本政府が国民党に積極的に資金、武器を日本政府が提供していたなら、おそらく共産党は壊滅できたであろうし、満州の利権はある程度、確保できた可能性もあった。ただいずれは、統一した中華民国と日本の間に満州国を巡り対立し、朝鮮の民族問題もまた勃発するであろうが、欧米と日本が戦争に至るような事態は避けられたと思われる。現在の台湾に近いような国が隣国にあることになり、今とはずいぶん異なる東アジアの様相となったであろう。
こうした疑問に答えてくれたのが、「日本陸軍と中国 「支那通」にみる夢と蹉跌(戸部良一著、ちくま学芸文庫、2016)である。戦前、支那通と呼ばれた中国の専門家は陸軍に偏っており、いわゆるシビリアンコントロールの下、外務省、あるいは政府諜報部門の専門家がいなかった。さらにこうした陸軍の支那通は駐在武官、軍閥顧問として情報を収集し、陸軍、あるいは政府の政策自体を変更しようとした。軍閥と日本政府の仲介役をしようとしたのである。こうした傲慢な姿勢は結局、陸軍を通して日本の政策を誤らせることになった。
英米にも、支那通と呼ばれた人々はいたが、これらは民間人(ジャーナリスト、学者)や軍人、外交官など多岐に渡り、政府はこうした人々からの情報をもとに首脳で議論して政策を決定していた。ところが日本ではこうした支那通の軍人が勝手に自分の考えを主張し、逆に政府や軍がそれに振り回される結果となった。そしてその根本理念が日露戦争で得た中国東北部の権益の確保と増大にあった。日本にとって都合のよい相手と組み、思う通りの政策をするという身勝手なものであった。一方、中国のナショナリズムの胎動に気づき、積極的に孫文の中国革命を支持した人物もいた。本書では、その代表的な人物として佐々木到一に焦点を絞っている。佐々木は混乱した中国の中で唯一希望がもてる人物として孫文に共感をもち、軍務局長の小磯國昭からは「ササキイ、革命はまだかね」と揶揄されたり、大川周明からは孫文への傾倒から喧嘩にもなった。ところが佐々木もあやまって国民党軍に捕まり暴行されるという事件がおこったことをきっかけに次第に国民党への関心は薄らいでいく。こうした佐々木や他の支那通軍人に比べて孫文、蒋介石、袁世凱などの中国の人物はしたたかで、軍人では全く歯が立たない。人、時期により180度違うことを平気でしゃべるのが政治家であり、これは軍人の性格とは全く異なり、両者は基本的に理解することは難しい。明治時代は軍人であり、政治家であった人物も多くいたが、昭和になるとそうした度量の大きな軍人はほとんどなく、極めて偏狭な立場から事を起こした。さらに言うと、孫文への支持者は民間人が多く、軍人はそれに対抗して軍閥に肩入れしたのかもしれない。
昭和になり総理大臣は終戦までに15人変わった。ほぼ1年ごとに首相が変わったことになる。一番長い内閣でも東条英機首相で、2 年9か月にすぎない(同時期、イギリスは4名)大統領制をとらない日本では、象徴天皇を除くと、最高指導者は総理大臣であり、これが頻繁に変わったのでは、官僚、ことに戦前では、その最大官僚勢力の陸海軍が主体となってしまう。その陸軍も大臣が昭和元年から20年までに14名変わった。上層部がこうでは、中国政策も支那通と呼ばれる佐官級の軍人のしたい放題になりがちで、一人のリーダーが長期に渡り国の方向を定めるのはリスクも多いが、一方、戦時下では、強い指導力が求められる。元老が消滅した大正期を境に日本の混乱は極め、その合間に官僚、軍部の歯止めが効かなくなる。支那通軍人の戦争責任を問う前に、その上部組織の首相の頻回な交代を許した世論、とくに新聞を中心としたマスコミの責任は大きい。日本もようやく安倍内閣が3年9か月の長期政権となり、これが外部からの侵略への抑止力となっているが、1年ごとに首相が交代した民主党政権時が最もやばかった。
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