先日も、“秘密のケンミンSHOW”を見ていると、難解な言葉として“津軽弁”が面白、おかしく取り上げられていました。私もこちらに来て、すでに25年以上なりますが、未だ津軽弁を十分に聞き取ることはできません。年配の方が早口でしゃべられると半分くらいしか聞き取れず、家内や従業員に通訳してもらうことがあります。家内や従業員は地元育ちですが、たまに郡部の方の方言はわからないこともあるようです。津軽弁と言っても、五所川原、青森では違いますし、弘前市内と郡部でも違います。さらに今はありませんが、昔は士族と平民で言葉が違っていました。私自身、文献的には武家言葉は知っていますが、それを使っているひとは見たことはありません。70歳以上の年配の方がわずかに聞いたことがあるという程度です。もはや死語となっています。嘘みたいな話ですが、家内の祖母(明治生まれ)は標準語すらわからなかったそうで、ラジオ、テレビの普及でようやくわかるようになったようです。
津軽弁については専門家ではないのでよくわかりませんが、言葉が違うだけでなく、母音やイントネーションも違います。明治維新前、日本は沢山の藩があり、住民の行き来は基本的にはしにくい状況でした。庶民が藩外に出る機会と言えば、典型的な例として“御伊勢参り”があるくらいで、ほとんどの住民は在所を離れることはなかったと思われます。唯一の例は、江戸の藩邸に済む士族で、江戸詰めの藩士はその子どもも江戸で生まれ、育って、めったに国元には帰らなかったため、津軽弁を聞いたり、話したりできなかったようです。明治維新後には、江戸藩邸がなくなったため、江戸詰め藩士の家族は仕方なく、国元に帰りますが、地元民に溶け入れられず、早い時期に再び東京に帰るケースも非常に多くあります。江戸詰めの家族は地元に家がないため、今の新寺町や冨田町あたりに集団で居住しますが、地元からは江戸町と称されるように、異分子として扱われたのでしょう。
江戸時代は、各藩の境界には関所が設けられ、通行手形などをチェックして出入を管理していましたが、東海道や中山道などの主要街道沿いの藩は、多くの人々が通過し、人の出入りも多かったと思われます。一方、青森、弘前藩は本州の末端で、北海道に渡るごくわずかな人以外に、領内を通過する藩外の人はいません。さらに他藩から弘前藩に入るルートはかなり限られており、いわゆる津軽三関と呼ばれる、奥州街道の八戸藩に行く野内番所、羽州街道の秋田藩、大館に行く碇ヶ関番所、さらに日本海側を行く西浜街道の大間越番所があります。地形的には周囲が山に囲まれた地点に関所があり、弘前藩自体が一種の要塞のような地形になっており、その出口が上記3カ所にあります。といっても通行量は限れていて、ある研究によれば、月平均で、碇ヶ関は250人、野内は100人、大間越は40人と非常に少なく、碇ヶ関は矢立峠があり冬場の通行はほとんどできない状態でした。東海道などの主要幹線での月の通行量は2万人を越えることを考えると、ほぼ鎖国状態と言えるでしょう。お伊勢参りについても、津軽から伊勢までは往復で3、4か月もかかる旅だったため、経済的にもよほど大変で、ごく限られた人が行っただけなのでしょう。庶民は領内の三十三カ所巡りがせいぜいだったと思われます。
こうした孤立した地形的特徴により、津軽弁に代表されるような独特な文化が現在まで残っているのでしょう。同様なことは南端の沖縄も、島という孤立した地形が、独特の文化を醸成させています。明治以降、交通網の発達により県外との交流は活発となり、次第に文化的な違和感は減ったとは言え、2013年の海外旅行者数を見ると、出国率は東京の26.2%に対して、青森県は3.2%と全国最低であり(沖縄:6.4%),就職、進学で県外にでることはあっても、それ以外ではまだまだ県内から出ない傾向はありようです。またインターネットの利用率も島根県に次ぐ全国で二番目に低く、外部からの情報を取らない傾向があります。
ついでに言いますと、津軽地域は今でも津軽三関を締めると鎖国となり、食糧自給率も北海道に次いで高く、カロリーベースで123、生産額ベースで222となり、それも魚、肉、野菜、果実などほとんどの分野で自給可能であり、東京1、大阪2、沖縄30に比べると対照的です。
2 件のコメント:
津軽の先住民族はアイヌで、津軽という閉鎖的な土地の住人が全部入れ替わるというのは考えにくく、昔から住んでいる津軽衆の多くはアイヌの血(純血や混血)が流れていると仮定できると思います。地名も「内」「別」「舞(前)」「尻」とアイヌ語の地名が多いです。津軽ではふきのとうを「バッケ」と言いますが、これもアイヌ語由来とされています。津軽弁の場合は、単なる方言というよりも、アイヌ語との関連についても考えてみる必要があるみたいですね。
津軽の場合、中世より以前の状況が全くわからず、人種的、言語的にはどうなっているか不明です。仰るように人種的にも言語的にもアイヌの影響は強いと思われますが、日本語の古語も多く残っています。昔の日本は各地で言語は相当違っていたのでしょうが、江戸時代以降、割合他国との交流もあり、次第に方言が薄められたと思います。ある意味、方言の強い地域というのは、鹿児島にしろ、沖縄にしろ鎖国制が強い地域です。江戸時代、津軽のアイヌはすでにほぼ絶滅状態で、一部のアイヌ部落に住む人々がいましたが、すでに津軽人とは会話できない状態でした。むしろ津軽弁は秋田弁との共通するところが多く、飢饉の際に秋田からの人口の流入が考えられます。天明飢饉では人口のほぼ半分が餓死し、さらに他国に逃げる住民を多くいました。
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