2016年9月10日土曜日

徳島県、阿波市十二柱神社、大阪、帝塚山学院小学校?の昭和初期の写真

徳島、阿波市、十二柱神社

写真の右端の拡大

大阪、帝塚山学院小学校(昭和初期)

上の写真の拡大、みんな高価そうな外套を着ている



 写真は多くの情報がありながら、それを読み解くのは非常に難しい。それでも現在では、インターネットのおかげで莫大な情報から検索できるため、ごくわずかなヒントがあれば、読み解くことも可能となる。

 親父の遺品には多くの写真があり、親類関係の写真は大体お袋が聞いていてわかるが、子供のころの写真は説明文がないため、全くわからない。生きている時に聞けば、ものの数秒でわかることなのだが、亡くなった後で調べるとなると大変難しい。

 ここに一枚の写真がある。神社の鳥居の前で、6人ほどの貫禄ある大人と十数人の子供が写っている。板の立て札に“金参拾円 笠井巳七”などと書かれているので、神社改築工事へ寄進した人々を顕彰する催しなのだろう。神社をとりまく石柱には右から佐藤政一、笠井泰次、笠井弥平、板垣久平などの名が読めることから、Googleでかたっぱしから人名を検索するが、全くわからない。他に何か参考になるヒントはないかと見ると、画面右に“二柱神社”の字がかすかに読める。調べると宮城県に二柱神社があるが、親父、祖父が宮城県と関連することはないため、さらに検索すると“十二柱神社”に行き当たった。四国に同名の神社が数社あるため、今度はGoogle のストリートビューで見てみると、この神社は徳島県阿波市にある十二柱神社であると完全に一致した。祖父の故郷にも近く、資産ができてから故郷の神社に寄付したときに撮影したことがわかる。

 もう一枚は小学校高学年の遠足か修学旅行の時の集合写真である。6年生のときであれば、親父は大正7年生まれなので、昭和3、4年ころの写真である。昭和初期と言えば、小学校の子供はまだまだ着物が一般的で、全員が制服を着ているのがまず不思議である。さらに一学年であろうが、男子より女子が多い、これも不思議であり、公立小学校では男女半々か、男子が多いのが普通である。また生徒一人一人を見ると、寒い季節なのか、自前のコートを着ているが、どれも高価そうで、中にはショールをつけたおしゃれな子供もいる。また保護者なのだろうが、後ろにはこれも立派ななりの大人がいる。こうしたことから、どうも公立小学校ではなく、私立小学校である可能性が高い。親父の小学校が母に聞いても知らないが、大阪の小学校であったのはまちがいない。中学になると実家のある徳島に帰り、旧制阿波中学から東京歯科医専に進学する。

 ここで再びインターネットで調べると、当時、大阪の私立小学校は追手門学院小学校(大阪偕行社附属小学校)と帝塚山学院小学校の二校しかない。前者は軍人になるべき創設された学校で男子校である。するとこれは帝塚山学院小学校ということになる。帝塚山学院の創立者は徳島県出身の庄野貞一で、祖父とは同郷である。さらに“帝塚山学院物語”には「庄野貞一校長の方針で、初年度から児童の制服を採用しました。写真にあるように、男児たちは黒の折り襟の上着に半ズボン、女児たちは洋服・エプロンと海老茶の帽子を身につけています。大正時代の初め、大阪には私立の小学校は2校しかなく、公立小学校の児童たちは着物姿でしたから、この制服は格段にめずらしく、また斬新なものでした」とある。おそらく帝塚山学院小学校の遠足あるいは修学旅行の際の記念写真で、大阪の裕福な子供達の状況がわかる写真である。残念なことに誰が、親父かはわからないし、場所も不明である(もう少し調べるとわかると思うが)。

 一枚の写真には色々な情報があり、家に残っている古い写真を調べるのはミステリーを解明するような面白みがあり、皆さんも試して下さい。

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