横浜婦人慈善会病院(1905年ころ) |
The inter ocean Sat の11月22日(1890)に菱川やすのことが出ていたので紹介する。
“彼女の成功を祝って
Charles Warrington Earle先生により昨晩、菱川やすの送迎会が行われた。菱川安は若い女性で、数日後には母国に帰ることになっている。そこでは宣教医として働くことになっており、そのこともあって送迎会が開かれ、女子医科大学の同級生の多くの友人がお別れを述べようと集まった。
菱川先生のケースは多くの点で興味深い。彼女は日本で最初に医学専門知識を学んだ女性であり、優秀な成績を収めて母国に行く。彼女は本当にかわいい28歳の女性で、日本南側にある名古屋で生まれた。彼女の父親は政府官僚で、国の勅任官(appointee
of the Tycoon)であった。しかし天皇を巡る政争に巻き込まれて失脚した。
菱川先生は10年前にキリスト教徒となり、その時にミッションスクール(横浜共立女学校)で英語を習った。5年前にアメリカに来て、Shipman先生と出会った。彼は彼女に関心を持ち、説得して女子医科大学に学生として入学するように勧めた。彼女は非常に理解が早く、物覚えもよいため、ここでの履歴も素晴らしいものであった。彼女の洗練されたマナーと知性的な会話力はすぐに皆から好意をもたれ、優秀な成績で卒業した。彼女の信仰は長老会派であるが、何らかの宗派の命令で母国に帰るのではなく、むしろそれとは独立して彼女のしたい仕事のために帰国する。“
教授も含めた30名くらいの名が記されている。他の新聞では出席者は300名を越える大規模な送別会であったようで、菱川は人気があり、期待されていたのだろう。この記事では、菱川は名古屋の出身であることはわかる。医籍登録者では、女医では8番目として「菱川ヤス 本籍:神奈川、出身校:外国医学校、登録年月:1891(M24).04」の記載しかない。本籍は横浜共立女学校があった場所にしているのだろう。愛知県最初の女医は登録番号3の高橋瑞で「高橋瑞 本籍:愛知、出身校:済生、登録年月: 1887(M20).03,明治年間:東京都日本橋区(開)」とある。高橋瑞は嘉永五年(1852)、西尾藩の武士の家に生まれ、一度が結婚するが、離婚し、30歳で産婆となった。その後、産婦人科の女医になろうとしたが、学費が続かず、断念した。ところが萩野吟子が日本で始めて女性で医術開業試験に合格したと聞くと、再び猛勉強を始め、明治20年に合格した。
菱川はシカゴ女子医科大学の4年間の正式なコースを優秀な成績で修了し、その後も1年間のインターンをしてから、横浜婦人慈善会病院で勤務した。当時の女子としては、岡見京と並んで、最も高い医学教育を受けた女性であろう。シカゴ女子医大のカリキュラムが残っているが、入学試験もあり、授業が始まると毎日のように試験がある。英語を母国語とする学生でも無事に卒業できるのが難しい中、単独で日本からやってきて、優秀な成績で卒業することは驚くべきことである。
上記の新聞によると、菱川の父は、政府の官僚(a government official, an appointee of the Tycoon)とあるが、the Tycoon “大君”を江戸幕府、尾張藩とするか、“日本”の総称とみるか、わからない。菱川は横浜共立女学校の一期生で明治四年入学である。上記1890年の新聞で28歳ということは1861,62年生まれで、9歳か10歳で共立女学校に入学したことになる。歳をごまかしている可能性もあるが。尾張藩に菱川という人物がいたかもわからない。もし名古屋市出身であれば、最初の女医に当たるので、名古屋の研究者の意見を待ちたい。
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