明治四年士族在籍引越際之地図
現在、弘前高校のある場所は、大正になるまで黄檗宗慈雲院があった。ここには本堂の他に、六角堂、翁塚(句碑)、天神、儒学者の兼松石居の墓があり、また寺内には名誉桜という大きな桜の木はあり、南溜池もよく見えて行楽の場であった。
先週、日暮橋を渡ってすぐの道を左に曲がっていくと、奥は突き当たりとなり、さらに私道のような未舗装の道を弘前高校敷地に沿って上がっていくと、墓所につく。ほとんどの人は知らない場所であるが、弘南鉄道の中央弘前駅から大鰐向かう車中ではすぐに見える高台にある。近くの人に聞くと、天理教の墓所ということだったが、そのまま調査せずに降りた。今日は休診日だったので、図書館の帰りに、再びこの墓所を訪れ、調査した。
近所の人が言うように、弘前天理教の重要な人物の墓があり、他にも信者さんの墓が集まっている。非常に景色のいいところで、いい墓所であるが、夜は怖いところであろう。墓をゆっくり見てみたが、多くの墓は昭和以降のもので、わずかに大正のものが混じる。弘前の天理教は明治二十七年頃に葛西亦蔵(津軽大教会長)や太田丹五郎の尽力で信者数を増やした。確か二人の墓もここにあった。それ故、大正から昭和の墓は天理教の信者さんのものであるが、ただ5つ程、天保年間の古い墓がまとめてられており、さらに墓所の端にところに文字が読めない古い二つの墓が打ち捨てられていた。
慈雲院は明治になると次第に廃れ、大正四年に弘前中学の拡張に伴い廃寺となったとされている。慈雲院の墓所は明治二年弘前絵図では入り口、すぐの所であるが、明治四年の地図では今回、訪れた墓所に近いところに記載されている。今の弘前高校には元の慈雲院の痕跡は全くなくなっているが、唯一の痕跡は、天理教墓地で見つけたこの古い墓石であろう。
おそらくここが慈雲院の墓所であり、廃寺後、天理教の墓所となり、それまであった多くの墓は他の寺に移ったが、残っている古い墓石、五つをまとめたのであろう。この墓所のある場所は、土淵川の深い渓谷の上にあり、古い景色を見せる場所である。坂の途中には不思議なことにキジが歩いていた。また坂の途中に、やや広い農地があり、果樹や野菜が栽培されていた。弘前高校には次の道が入り口となっていて、そこからは何度か高校に入ったことがあるし、普通の学校の景色であるが、そのひとつ手前の道がこれほど面白い坂であるのは、初めて知った。帰りは日暮橋を渡って、大円寺の縁沿いの道を歩いたが、ここも静かで、古い川岸の姿を堪能できるナイススポットである。まだまだ弘前も知らない場所がある。
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