東大紛争が起こったのが、昭和43年、私が中学2年生ころだった。当時、ベトナム戦争に対する反戦運動が世界中で起こり、日本でも東大、京大、日大など、大学を中心とした学生運動が起った。ヘルメットにゲバ棒といった格好で、学生たちは教室をロックアウトして、閉鎖し、デモ運動を繰り返した。その後、こうした活動は高校生まで飛び火して、阪神間では灘高校など進学校でも校則反対といった活動が行われ、六甲高校では一部の生徒による運動がおこり、高校生の頭髪許可となった(それまでは高校生も坊主頭)。私が東北大学に入学した頃、昭和50年ころになると、活動はかなり下火にはなっていたが、それでも教室はロックアウトされ、教授達は文化大革命を真似て三角帽をかぶせられて自己反省を迫られていた。
隣国、中国では文化大革命が起こり、朝日新聞は礼讃記事を書いていた。私もその風潮に染まり、一時は毛沢東語録や京都大学の竹内好教授の著作はよく読んだ。当時は、文化大革命の実態は全くわかっていなかったが、その後判明したところでは、犠牲者は数百万人、被害者は1億人とされ、1966年からの10年間は中国にとって大きな後退を強いた。日本の学生運動にも大きな影響を与え、造反有理という言葉がはやった。
私の尊敬する原子昭三先生は、若い頃は日教組の活動に積極的に参加する教師で、原水爆反対運動にも没頭した。ところが、日教組の主導する原水爆反対運動はもっぱらアメリカの核実験のみに反対し、中国、ロシアの核実験には何とも言わない。これはおかしいと疑問をぶつけると、ロシア、中国の核は“きれいな核”とのたまう。これに完全に切れ、日教組、社会主義運動から一切手を引き、その後、国民会議運動に尽力した。この構造は、今でも基本的には変わらず、日本共産党、社民党は中国、北朝鮮のシンパではないとしているものの、自衛隊、自民党、アメリカに反対するような熱意は見られない。どうも消極的である。過去のこれらの党の発言を調べると、いかに中国、北朝鮮寄りであったことがはっきりする。素人が考えても、沖縄の辺野古基地運動に参加するなら、まずその誘因となり中国に対する抗議が先決であろうが、そうした抗議活動は知らない。
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