鹿児島御城下絵図(1856) |
徳島御城下絵図(明治初年) |
このブログでは、これまで「明治二年弘前絵図」のことを多く取り上げたし、4年前には“明治二年弘前絵図—人物と景色を探して”という本を出版した。ところが、この絵図の製作動機については、弘前藩の資料を色々と調べているが、今もってわからない。当初は、廃藩置県に伴う士族およびその所有地の把握、あるいは地租に関係する絵図と考えていた。そもそも江戸時代、士族の土地は藩主からそれぞれの家臣に貸し与えた拝領屋敷で、藩から出て行けと言われれば素直に出て行かなくてはいけない(もちろん買得屋敷もあるが)。藩における役職、禄により住む場所や家の大きさが決まっていたため、何らかの理由で昇進した場合は、それに伴い住む家もかわったし、逆に降格した場合も同様であった。そのため、江戸期を通じて、同じ場所に住む士族はむしろ少なく、転居もかなり多かった。ところが、明治になると、土地に対する税金、いわゆる地租の概念が、米がとれる農村部だけではなく、弘前のような城下町にも広がり、それに伴い藩主は自分の所有する城下の土地をそこに住む家臣に与えることになる。それにより家臣はその土地を売る権利が発生した。そのため、明治になり、禄が廃止された士族は、次々に土地家屋を売り、明治二年から四年にかけて一気に転居者が増える。もともと、転居者も多く、今と違い表札もなかった江戸時代では、どこに誰が住むのか、はっきりしておらず、そうした意味から明治二年、弘前藩の最後の仕事の一つとしてこうした町絵図、城下絵図を作成したと考えていた。
ところがこうした、今の住宅地図のような住む人の名を細かく記載した絵図は、幕末から明治初期にかけて全国的に多く作成された。明治国絵図とよばれる藩領を示す大型絵図は、明治新政府の名で作成されたが、町絵図、城下絵図はもっと前から製作が始まった。全国的にどれだけあるか専門外なのではっきりしないが、古いのは安政三年(1856)製作の石川県立歴史博物館所蔵 “金沢町絵図”、さらにはNHKファミリーヒストリーによく登場する鹿児島県立図書館所蔵、安政六年(1859)の大型の“御城下絵図”があり。また少し小さいサイズではあるが、山口県立図書館所蔵の“幕末山口市街図”(慶応元年から明治元年、1865-1868)や“萩御城下絵図”(慶応元年、1865年)がある。さらに明治2、3年ころのものとしては徳島藩の“徳島御城下絵図”や篠山藩の“丹波国篠山城下絵図”がある。他にも幕末から明治初期、最後の城下絵図と言ってよい地図があると思うが、未確認である。こうした城下絵図は各藩、江戸期に何度も作っており、弘前藩でも正保(1644)ころの津軽弘前城之絵図、延宝(1676)ころの弘前惣御絵図、あるいは宝暦ころにも御城下絵図(1760)が作られた。こうした絵図の作成目的は、まずは居住者と居住地の把握であろう。現在であれば、住宅地図は、郵便、宅配の配達、不動産売買に活用されているが、江戸期、藩としては何らかの理由で藩士の居住者と居住地を把握する必要があったのだろう。江戸時代は表札が今ほど普及しておらず、土地台帳に近い“御屋敷根帳”によって屋敷とその住人をおおよそ把握できたが、幕末、ぺりー来航以来、藩士を総動員する西洋軍制、人材登用など改革に対応するためには正確な居住地と居住者の把握を必要とした。幕末頃、それまでの長男が跡目を継ぐ制度から実力に応じて、それも次男、三男も任官され、新たな一家を立てることができるようになった。すると屋敷も新たに拝領することになり、あるいは職種が上がることで住むところも変わってくる。こうした藩士の移動の激しい時期が幕末期であり、それに対処するために各藩でも新たな城下絵図の作成に向かわせたのかもしれない。明治二年弘前絵図についても、絵図の計画、製作も含めて明治新政府の仕事ではなく、幕末の藩の仕事を考えると、その製作目的もかわってくる。
2 件のコメント:
曾祖父の白戸末蔵は文久2年生まれで、除籍簿では弘前桶屋町三番地第三号が居住地ですが、代官町に住んでいたと伝承されています。住所が変わることが有ったとは初耳でした。
コメントありがとうございます。まず番地が三番三号ということは、明治初期に三番と振られた番地が少なくとも3つにわかれたことを意味すると同時に、地租改正以降に引っ越してきたことを現します。また桶屋町は士族町ではなく、商人や卒族が住んでいました。逆に代官町に住んでいた士族が江戸時代に町人町である桶屋町に住むことはなく、明治後に移り住んだ可能性が高いと思います。多くの士族は維新後、困窮のため、家屋を売り、生活費に当てました。士族町では明治初期にほとんどの住民は変わってます。
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