前列ヒゲの人物が笹森順造 |
笹森順造については、これと言った評伝はないが、最近、近所の古本屋で「参議院議員 マスター・オブ・アーツドクター・オブ・フィロソフィー 笹森順造」という小册があった。著者名はないが、45ページーの小册で、「唐変木」の別冊とある。調べると富本岩雄著、1961年に国際平和産業で発行された本であることがわかる。
本書では、東奥義塾の塾長になるまでの笹森の弘前、早稲田、留学中のことがくわしく書かれている。おもしろかったのは、笹森が米国に留学したころ、ほとんど英語ができなかったことである。長男の笹森卯一郎は、東奥義塾を卒業後すぐに、インディアナ州のデポー大学に留学するが、8年間の勉学で博士号を得て、長崎の鎮西学院に勤務する。兄の影響もあり、笹森順造も早稲田大学にいるころから留学の希望があったが、兄に相談するといきなり留学するより、社会に一度でてからの方がよいとアドバイスされ、新聞社に勤務する。
アメリカ、シアトルに着くと、弘前出身で、当時、北米時事主筆をしていた藤岡紫郎の世話になり、デンバーの教会に勤める同じく弘前出身の白戸八郎牧師のところに行き、今後の進路について相談する白戸の妻てるは、笹森順造の姉てるとは函館遺愛女学校の同窓であり、同校でも勉強のよくできる同じ名前の校友が三人いて、“さんてる”と呼ばれていた。そうしたこともあり、笹森の世話をした。ただ英語がわからない。本では
「日本の学校で高等小学校から英語を十七年間も教わったのだが、米国に来て見ると一向役に立たない。そこで基礎から英語を習い直したいと思ってグランマスタースクールの一年生を志望したが、年が二十五にもなっているので許してくれない。そこでイーストデンバーハイスクールの校長スマイル氏に頼んで聴講生に入れて貰った。入ってみると語学がむずかしいのに教科目の内容が子供臭くてピンとこない。それでもスクールボーイをし、たたみ弁当にサンドウィッチとフルーツを入れ、一週二ドル五十セントを貰って通った」
スクールボーイといっても、召使いのようなもので、こうした生活をして少しずつ英語も学び、2年後にようやくデンバー大学の大学院に進学するが、最初の3、4か月は全く授業についていけず、1年ほどしてようやくついていけるようになり、最終的にはAプラスの優秀な成績で卒業して、哲学博士号を取得した。
現代の日本人同様に、語学の面では笹森順造はかなり苦労したことが、こうした文によってもわかる。逆にもっと初期の留学者、珍田捨巳、佐藤愛麿、川村敬三や兄の笹森卯一郎もそれほど語学の苦労をしていない。この差は、日本での学校教育に起因し、珍田、佐藤や卯一郎はすべて東奥義塾の卒業生であるのに対して、笹森順造は青森県立第一中学校、早稲田大学の卒業である。東奥義塾はほとんどの授業を英語で行い、外国人教師がいたのに対して、県立中学ではそうした教育はない。このブログで何度か紹介した須藤かく、菱川やすら横浜共立女学校の授業も英語で行われており、米国に留学後も語学的な苦労はない。
明治中期から日本の教育は、海外の学問を翻訳して教えるやり方をしてきた。私の領域の矯正歯科学でも、海外で有名な教科書はすぐに翻訳本がでて、学生は日本語で学ぶ。こうした翻訳文化は、アジア圏内でも日本は際立ち、シンガポール、インドネシア、韓国でも高等教育機関の教科書は英語の場合が多い。すなわち大学卒業者はイコール英語ができることになる。こうした翻訳文化は内容をよく理解して、それをさらに深める点では優れているが、海外からの留学生、あるいは海外への留学には向いておらず、どうしても内向きの学問になりやすい。そのため翻訳文化が行き渡っていない明治中期までは、特にミッション系の学校では外国人教師から直接、生徒は英文の教科書、講義で授業を受けていたため、留学しても語学面での苦労は少なかった。
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