2018年11月23日金曜日

珍田捨巳手紙(21,2歳の頃)











 弘前出身の明治の外交官、珍田捨巳の手紙がヤフーオークションに出ていたので落札した。何人かの競合者がいたが、何とか買うことができた。これまで珍田の手紙がオークションに出ることはなかったので、貴重である。かなり達筆なくずし字なので、内容はほとんどわからず、解読中である。珍田が書いた外交文書は、現在、外務省のデジタル外交資料にあり、閲覧することができる。それを調べると、この手紙とは署名や文体も違う。ただ外務省の公式文書では、こうした私的な手紙とは書体も違って当然である。一方、封筒には“東京商業学校 川田徳二郎殿 永山ギ(義)紹介  裏には珍田捨巳”となっている。調べると、川田徳二郎は現在の東京学園高等学校、昔の東京商業学校の先生をしており、18888月に濱田健次郎らが東京商業学校を設立し、その創立メンバーの一人に当時、内閣官官報局局員であった川田徳二郎がいる。

 ただこの手紙が偽物かというと、その可能性は少ないと考える。もともと手紙については、書や絵画に比べて骨董価値は少なく、せいぜい小説家や偉人の手紙について、フアンが買い求める程度である。すなわち西郷隆盛や坂本龍馬の手紙などは欲しい人も多く、値も高く、偽物も出よう。ただ珍田捨巳はそれほどの有名人ではなく、地元津軽でも知る人は少ない。そうした人物の手紙をわざわざ作ることもないように思える。封筒にはこの手紙の説明文があり、それには「英国駐在大使より東宮大夫に転じ、?登極後、侍従長に任ぜられ前年薨去せる伯爵珍田氏が明治二十五、六年頃、外務省電信課長たりし時、私立東京商業学校夜学科に英語を稽古せる当時の書状」とあるが、明治256年、珍田はサンフランシスコ領事で、内地にはいない。また外務省電信課長であったのは明治20から21年頃である。さらに珍田はアメリカ留学し、青山学院や東京英学校で英語を教えており、東京商業学校で英語を教えることがあっても教わることはない。

 この解説文は全く信用置けないが、この手紙を明治21から22年頃のものとすると、つじつまが合う。Wikipediaによると現在の東京学園高等学校の沿革では、明治21年に設立者、濱田健次郎として東京都に私立学校設立の願いが出て、創立メンバーには内閣官報局翻訳課長、濱田健次郎とともに同局員川田徳二郎の名がある。明治22年には日本初の私立夜間商業学校、私立東京商学校が設立された。珍田はアメリカから帰国後、青山学院で教鞭をとり、明治18年に外務省入局後も東京英学校の夜間で英語を教えており、その手腕を買われて、東京商学校の開校にあたり、誘われたのかもしれない。文書を読めばもう少しはっきりする。となるとこの手紙は明治21,22年の39日のもので、手紙の末尾の濱田君、川田君はそれぞれ創立者の濱田健次郎と川田徳次郎となる。珍田は、アメリカから帰国後、その語学を生かして英語教師になるか、従兄弟の佐藤愛麿の勧めでたまたま入った外務省で働くか悩んでいた時期であった。当時の心情を知る貴重な資料かもしれない。

 先ほどから写真の一字一字を切り取り、東京大学の木簡崩し字ガイドシステムに画像をクリックして解析結果から文書を読んでいる。30分かかり、最初は“拝啓被被一昨夜川田君とは面識申上げ一??して早速永山君と面会し、遂幸目前少生代として出校し保佑”まで読めたが疲れた。難しい。いずれ珍田の手紙と確定すれば、図書館か博物館に寄贈したいと思っている。






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