2018年11月4日日曜日

野の花 流転の海 第9部


昨日撮影した弘前城西堀

 宮本輝さんの新刊、「野の春 流転の海 第九部」を読了した。執筆から37年、よくぞここまでたどり着けたと心から著者におめでとうと言いたい。37年という期間は途方もなく長く、その間、書き続けるためには体調面でも支障がなく、もちろん長編を書く精神的な強さも保っていなくてはいけない。著者にとっても、ライフワークである本書を何とか完了できたことは、ほっとしたことであろうし、我々、読者にとっても、本来ならこれからもう続編を読めないという多少の喪失感があるものの、むしろ“お疲れさまでした”と礼を言いたい。

 完結編の「野の春」は、これまでシリーズ以上に淡々とした流れであり、熊吾の死に向かうラストランを愛おしむようなタッチで描いていて、人間の生き様に対する静かな感動を覚える。もともと自伝的な小説ではあるが、あくまで主人公は父である熊吾と母親、房江とその周辺の人物である。もちろん息子である著者も主要人物ではあるが、その感情は直接、本の中では描かれない。一方ではその時代、状況における、それぞれの著者の感情は今でもはっきりと覚えていると思うが、小説には登場させない。それを表現するのはいわゆる私小説あるが、この小説は完全に著者を主人公の熊吾の息子という第三者的な見方で描いており、佐藤愛子さんの「血脈」と双璧をなす作品であるが、個人的には「流転の海」は「血脈」をはるかに凌駕する作品と思う。なぜなら佐藤愛子さんの父、佐藤紅緑、兄、サトウハチローや周辺人物である福士幸次郎などはすべて有名人であり、その縁故や行動はある程度、記録でたぐれる。ところが宮本輝さんの場合、父親の熊吾は無名の人物であり、その履歴は例え、妻や子供でもはっきりしない。これを書くのがどれほど大変かは、自分の父親のことを考えれば容易にわかる。私の父は、七年前に八十八歳でなくなったが、二年前に徳島市で学会があり、その折に軍隊での履歴が記述された軍籍を徳島県庁でもらってきた。この軍籍で初めて満州にいた時の部隊、部隊長名あるいは捕虜収容所(マルシャンスク)などがわかった。子供のころ、父に連れられ東京の部隊長に会いに行ったことがあるが、関係者なのだろう。お互い親子として数十年暮らしながら、自分の父親のことは全くわかっていないのが普通である。

 こうした点では、「流転の海」は自伝的小説といっても大部分はフィクションであろうが、それでも自分の父親を描くのであるので、全く空想のまま小説は書くことはできず、執筆には大変苦労したに違いない。以前、このブログでも尼崎の蘭月ビルのことを書いたが、小説自体が当時の尼崎に正確であり、小説を構築する上で、事前の調査も充分に行ったに違いない。ただ有名人や有名地でなければ、昔のことを調べるのは本当に難しく、著者の記憶力が凄かったにしろ、調査には相当な手間と時間がかかったのだろう。

 熊吾が亡くなったのは、伸仁くんが21歳のころで、熊吾自身は自分の子供が成人するまで見届けられただけで充分満足しているが、最後の熊吾の息子への言葉(ネタバレで秘密ですが)に対する著者(伸仁くん)の回答が、この本なのかもしれない。父が亡くなった後、自分は思いがけず小説家として成功し、その姿を見せられなかったのは残念であるが、何とかやっている。あの世にいる父にそれを証明し、供養するとともに、亡くなるまで毛嫌いしてきた父をもう一度、見直すことができた。親子という宿命からは逃げられないが、こうした小説という形、第三者的な立場から両親を描くことで、昭和を生き抜いた日本人を描くことができた。

 「野の春」の舞台は大阪万博の始まる前、1968年ころの大阪(福島)であるが、私は12歳でかなり記憶が鮮明になってきた時代である。万博開催のためか、大阪、尼崎からは、どんどん汚いものが消えていった時期であり、同時に街からの人間臭さもなくなった。小学校1、2年生のころは夏になると、近所の小路には床机で夕涼みをする背中一面入れ墨をしたおじさんが多くいたし、溝の溜まった米つぶをすくって食べていた浮浪者もいたが、もはや昭和40年代になるとそうした風景も見ることはなく、基本的には今と同じ時代となった。そういえば、自転車に幟を立てて毎回、尼崎市市議選に出馬していた上田侃太郎というかわったおっさんがいたのも、その頃だった。そのため「野の春」では、それほど時代の臭い、色は表現されず、唯一、古い日本を鮮明に残すのが、熊吾が最後を過ごす狭山の精神病院だったのは、小説の締めくくりとしてもふさわしい。

 「流転の海」は、著者の間違いなく代表作であると同時に、近代日本小説の金字塔である作品だ。そして故人を思い出すのが供養であれば、本シリーズの完結は両親への最高の供養となったように思える。こうしたことで供養できるのは作家冥利につきる。

* 流転の海 第1部はすでに読んでいますが、野の春を読んで、再読しようと文庫本を買って読んでいます。これはある意味すごいことですが、第9部から第1部にそのまま繋がります。普通、第1部から9部まで37年も間隔があくと、少し辻褄が合わないことがあったりしますが、そうしたこともなく、なりより文体が全く変わっていないのには驚きます。作者のすごさでしょう。

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