写真2の拡大 左右反転
菱川やすの写真が見つかった。岡見京と同じ頃に、共立女学校からアメリカのシカゴ女子医科大学に留学して医師となった菱川やすについてはこのブログでも何度か取り上げた。他の女医、岡見京、須藤かく、阿部はなの写真は見つかったが、菱川やすの写真については、かなり探したが見つからなかった。ところが最近、“Hishikawa Yasu”で検索すると、ディスカバー・ニッケイというH Pで”Atypical Japanese Women-The first Japanese female medical doctor and nurses in Chicago-part 1”という論文が見つかり
(http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/12/6/atypical-japanese-women-1/)、
そこに“Yasu Hishikawain Yokohama. Courtesy of the records of the Women’s Union Missionary Society as archived at the Billy Graham Center”と説明が入った椅子の座った少女の写真があった。椅子が高いせいか、右足の草履は下に落ちてしまったが、それもへっちゃらで、前方へ強い視線を向けている。気の強そうな顔をしている。菱川やすは明治5年、横浜共立女学校が開校した最初の学生で、生まれは1861年頃で、写真は入学した当時、10歳頃のものと思われる。丸い机には洋風のカバンと洋書が置かれており、明治5年頃の写真としては写りが良い。丸い机を覆う布のデザインから一致する写真館を探しているが、まだわからない。
この少女の視線は、どこか引っかかる。記憶を探ると、以前、横浜共立学園から送ってもらった1879年頃の学校前で撮られた写真を思い出した。九人の生徒と二人の先生が写っており、渡辺かね、木脇その、吉田まち、二宮わかが同定されているが、他の五人の生徒はわからない。以前、右端の少女を阿部はなと考えたが、その後、須藤かくと阿部はなの写真が発見され、違うことがわかった。今回、注目すべきは左端の女性である。10歳頃の菱川の写真と比べると、目元が似ており、顔の輪郭、鼻、唇の形も非常に似ている。18歳頃の写真にしては老けているが、右に写る二宮わかも18歳だから、昔はこんなものなのだろう。意思の強そうな顔は10歳の時から変わらない。まず間違いなくこの写真の右端の女性が菱川やすと見てよいと思う。
菱川は名古屋出身で、父親は政府の官僚をしていたようで、横浜共立女学校の最初の生徒であったということは、父親も開明的な人物であり、さらに写真館で子供一人での写真を撮るのは、家が裕福だったと思われる。菱川という姓は全国的にはそれほど多くないが、名古屋に多い。さらに名古屋でも一宮市では690人おり、集中している。この辺りに菱川やすの親類がいそうであり、日本紳士録や人名録などを調べているが、該当する人物はいない。受洗しているので横浜の海岸教会の受洗簿に父親の名があるかもしれないが未調査である。
“Atypical Japanese Women----“の著者であるTakako Dayさんとは連絡がつき、メールをして写真掲載の許可を取ったところ、オリジナルの写真を所有するところに連絡してブログ掲載への許可を取ってくださいと言われた。おかしな英語を使ってそこに掲載許可のメールを出し、ようやく今日許可が取れた。写真自体はTakako Dayさんの論文から引用している。明治初期、五年頃のものであれば、非常に早い時期の写真であり、写真史においても少女の優れた写真だと思う。画風は内田九一に近く、横浜で写真を撮っていたライムント・フォン・シュティルフリートあるいはその弟子で、須藤かくとも親しい日下部金兵衞かもしれない。
どなたか幕末、明治の写真に詳しい方のコメント待っています。
|
4 件のコメント:
銕城記寿録, 村居銕次郎[著], 銕城記寿録刊行会[発行], 昭和17(1942)
に、「菱川やす」の生涯について、記載がある。
http://dl.ndl.go.jp/pid/1035455/1/66
貴重な情報ありがとうございます。何とか資料入手して
確認したいと思いますが、父親はだれで、どこの出身なのでしょうか。
やすの父、菱川篤三について。
明治大正実話稿, 村居銕城[著・発行], 昭12(1937)-09-12
http://dl.ndl.go.jp/pid/1258105/1/70 コマ 70 ノンブル 105
菱川篤三翁
卒去 明治三十七年六月十二日
法號 釋諦頂信士
墓所 横濱市神奈川新町長延寺
行年 七十三歳
遺族 神戸市湊東區東川崎町一鐵道官舎 菱川愿太郎
翁は名古屋の出、明治の初め、横濱に遊び、育英事業に從事し、元街、石川兩小學校の訓導兼會計幹事たり。予が警視廳を退き、書生的に(明治十一年)菱川家に預けられ、轉じて元街校に使はる。翌年更に菱川宗家の地所家屋世話係りに推薦を享け、十二年夏まで破格の優遇を受けたる恩や大なり。翁は其の名の如く温厚篤實にして而かも歌詞を能くす。予が耳底に遺れる情歌に。
菊にかくれたあの姫小松
早く根分けをして見たい
他の論文に、名古屋の士族の出身となっており、名古屋藩、あるいは周辺の藩の藩士を調べましたが、該当者がなく、そのままになっていました。
経歴より、おそらく士族と思われます。もう少し詳しく調べたいと思います。どうもありがとうございました。
コメントを投稿