法恩寺
最近、出版された「仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」(鵜飼秀徳著、文春新書)は、明治初期に行われた廃仏毀釈の実態を各地の例を挙げながら、わかりやすく説明している。教科書的には、明治新政府は天皇を頂点とした神道を国の土台となる宗教とするために、江戸幕府から守護されてきた仏教の力を削ぐべき、神仏混淆でごったとなった仏教と神道を分離する政策をとった。ところが俗化した仏教に対する反感もあってか、一部に地域においては、さらに急進的に寺院の破壊まで進んだケースがあった。最もひどいのは薩摩藩で、1000以上あった寺院が全て壊された。多くの仏像が壊された、中には薪として燃やされた。そのため、今でも鹿児島県には仏教由来の美術品が極端に少ない。同じようなことは宮崎県や、隠岐、佐渡などでも起こり、多くの仏像が破壊されたり、あるいは海外に流出した。あたかも中国の文化大革命のような狂気、過激さで明治4年から数年の時期にかかわらず、多くの被害を出した。
弘前藩での神仏分離あるいは廃仏毀釈はどうかというと、結論として、ほとんど大きな被害はなかった。それでも廃藩置県により藩による保護がなくなったこともあり、経済的に寺院は厳しい状況に追い込まれ、とりわけ、檀家の少ない、藩の祈祷所、菩提寺であった寺院は、その収入の大部分がなくなった。弘前藩、最大の寺院で、藩内1000以上の寺院、社の総まとめをしていた最勝院は、弘前藩から300石を賜り、その権勢を誇っていただけに、弘前藩の消失はきつかった。
当時の地所を明治二年弘前絵図で調べると、今の熊野神社から八幡神社までの250mの道路に沿って、多くの塔頭を持つ巨大な寺院である。絵図から、入り口には最勝院の警護を担当する官守、鹿内専右衞門の宅があり、その前の熊野宮の裏には塔頭の中でも大きな心応院があり、庫裡、本堂、観音、座敷、薬師、方丈など記載がある。その後、下馬、馬繋とあり、ここで馬を降り、繋ぎ、徒歩で参拝した。道路の東側には徳恩寺、正覚院、龍蔵院、神徳院、東覚院、西善院などの塔頭が続き、また西には宝蔵院、大善院、吉祥院、観善院、教応寺、普門院などの6つの寺が並ぶ。最勝院には表門、唐門形式の中門、および通用門があり、中門の右手には撞鐘楼があり、さらに奥には聖天堂があった。表門の北には大師牌と、経堂があり、本堂は、玄関と和ノ間があり、入って左には護摩堂、本堂、壇裁牌がり、南には座敷、待ノ間と役寮があった。さらに別棟には中ノ口、学寮、庫裡、方丈、主座があった。また台所、中間、納所や倉などもあった。寺院の西側には最勝院境内地田坪と書かれた農地があった。
最勝院は、神仏分離令に沿って、明治三年にこれらすべての施設を捨てて、銅屋町にあった同じ天台宗の大円寺に移った。別当として弘前藩最大の八幡神社がそばにあったことから、明治新政府の神仏分離令に配慮して、大規模な移転を行なった。神仏分離令による他の廃寺は、その建材が学校建設に使われた例が多く、最勝院の建材もどこかに使われたのだろう。ただその痕跡は今に探すことはできない。また最勝院の移転については、神仏分離令だけではなく、弘前藩の財政的支援が一切なくなったのも大きな理由の一つであった。これだけの大きな寺院を支えるほど檀家がいなかったといえよう。結果的には玉突き状態で、銅屋町にあった大円寺は、大鰐の高伯寺に合併し、今日に至っている。
この最勝院以外の明治の神仏分離令の影響は、少なく、禅林街にある寺の一部は廃寺となっているがこれは分離令とは関係ない。また新寺町でも、慈雲院が旧制の弘前中学校になったが、これも財政上の理由による。ただ新寺町で最も大きく、弘前藩主の菩提寺でもあった法恩寺については、弘前藩から最勝院に次ぐ290石の寺領を得ていたが、明治になって早い時期に善入院、一乗院、万智院、理教院、正善院、光善院、観明院などの塔頭がなくなった。おそらく神仏分離令とは直接関係はないが、最勝院のいわばダウンサイジングが見本になったのだろう。今では他の新寺町の寺以上に小さな寺になってしまった。明治以降、寺院には経営者の才覚が求められるようになり、逆に太平洋戦争後、神社への国家補助がなくなったり、地区の氏子制度が希薄になったため、近年、多くの神社がなくなってきている。田茂木野の大杵根神社、笹森町の東照宮、愛宕神社、上白銀町の稲荷神社がすでにない。
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