2021年1月14日木曜日

弘前市森町の忍者屋敷について その2

 

三重県、松坂、旧小津家

森鴎外、夏目漱石、旧宅




 前回のブログで東奥日報に掲載された弘前市森町の忍者屋敷は、根拠が少なく、不確かだと述べた。その後、明治二年弘前絵図で記載されている当時の戸主、“棟方嘉吉”について調べてみた。

 

 こうした人物について調べる場合は、まず弘前図書館にある“津軽家文書”、“石見文庫”、“八木橋文庫”などのある代数調、分限帳、由緒書などの目録に、そうした名前がないか確認する。“棟方”とつく名はあるものの“棟方嘉吉”の名はない。こうした場合、次に進むのが、内藤官八郎著、“弘藩明治一統誌”の“勤仕録”、“士族卒族名員録”、“人名録”の3冊である。特に士族卒族名員録は、士族3813名、卒族1833名、計5646名の名前が記載されている。ここもくまなく探したが、“棟方嘉吉”の名はない。この名員録は明治になり、帰田法により藩からもらった土地名と家禄を示しており、給禄の多寡により、藩における地位がわかる。明治二年弘前絵図では、すでに亡くなった人の名前をそのまま戸主名にしている例(森鴎外の渋江抽斎など)があり、この場合も戸主が“棟方嘉吉”の子供に変わった可能性もある。あるいは“嘉吉”は通名で、他の呼び名で記載されていたかもしれない。

 

 そこで、今度は、“弘前藩記事”をくまなく探していく、野辺地戦争、箱館戦争などの従軍兵士名や、賞典に名前が出ることあるからである。ここで大抵の名前が出てくるが、“棟方嘉吉”の名はなく、これ以上の調査は、分限帳や由緒書で棟方名に該当する書類を調査することぐらいしか思いつかないが、基本的にはその直系の子孫以外、開示ができない。今後、さらに文献的な調査を続けるが、まず“棟方嘉吉”が早道之者の頭であることを立証しなくてはいけないが、その証拠はない。

 

 次に“忍者屋敷”については、そもそも忍者屋敷という概念が不明である。忍者あるいはその子孫が住んでいた家を忍者屋敷とは言わないであろう。何らかのカラクリがある家を忍者屋敷と呼ぶようで、滋賀県にある甲賀望月家の旧宅は、隠し部屋、落とし穴、どんでん返しなどのカラクリがあり、観光名所になっている。同様に石川県の妙立寺には隠し階段や、抜け道、落とし穴などのカラクリがあり、忍者寺と呼ばれているが、建物そもそもは忍者とは全く関係ない。弘前市森町の忍者屋敷についても、その大きな根拠は床の間裏の隠れ部屋と玄関の鶯張りの板である。鶯張りの板については単に古い板が軋んでいると解釈もできるが、確かに床の間の隠れ部屋については不思議な空間である。幅60cm×95cmくらいの小さな空間で、ここから来客者の会話を盗み聞きしたという。

 

 そこで床の間の裏の空間について調べると、昔、行ったことがある明治村にある森鴎外、夏目漱石が住んだ家、この建物は明治になったできたものだが、床の間の裏が小さな部屋となり、障子を閉めれば隠し部屋となる。もちろん森鴎外は忍者ではない。さらに三重県松坂の商家、小津家の床の間のちょうど後ろに小さな部屋があり、床の間横からも入れるようになっている。もちろんここも商家であり、忍者屋敷ではない。同様に以前のブログで紹介した。旧伊東家、旧対馬家の床の間の裏にも小さな納戸のようなものがあり、戸がなければ、森町の家と同じような構造となる。さらに“弘前市仲町伝統的建造物群保存地区 旧伊東住宅、旧対馬住宅 保存修理工事報告書”(昭和58年)を見ると、両家の床の間裏の場所は、もともとは、いずれも厠であったことがわかる。

 

 家をつくる時に最も神経を使うのは方位であり、特に玄関と便所の位置を決めるのは難しい。玄関のいい方位は、東、東南、あるいは北西となる、鬼門と裏鬼門はダメである。同様に便所のいい方位は東、東南、北西となり、玄関の方位と重なる。私の家でも台所や風呂などの場所が色々と検討すると玄関の横に便所を作ることになった。ただ窓なしの空間となり、本来は消臭や昔であれば汲み取りのために、外に接する場所でなくてはいけない。そうなると便所の位置は本当に悩む。おそらく伊東家も対馬家も方位から床の間裏、近くに厠を作らざるを得なかったのだろう。その後、厠は他の場所に移り、その空間が納戸になった。

 

 森町の隠し部屋についても幅が60cm、奥行き95cmくらいしかないので、厠としては小さすぎるが、伊東家、対馬家の例からすれば、昔は小さな厠であった可能性も全くは否定できない。ただ家内の実家は、すでに壊されてないが、明治中期頃の建物で、縁側の廊下に突き当たり、床の間に裏に幅1m、奥行き2mくらいの空間があり、ここは長持や掃除道具が入っていた。森町の家の隠し部屋も、納戸の可能性が高い。またこの隠し部屋は、床の間の裏にあるだけで、縁側の廊下には開口しており、そこからは丸見えで、全く隠し部屋にはなっていない。よほど前述した三重、松坂の小津家の方が隠し部屋に近い。来客者の会話を聞くためだけの隠し部屋として作ったのであれば、全く頭隠して尻隠さずで、お粗末で、どんでん返しくらいの工夫をして、万一、廊下に出た客からも見えないようにすべきである。来客が廊下に出て誰かが盗聴しているのが見つかれば、それこそ大騒ぎになる。

 

 この隠し部屋に関しても、カラクリのある忍者屋敷としてはいささか納得いかない。実用日本語表現辞典では、忍者屋敷とは“外見は普通の日本家屋であるが、家の各所に敵から隠れたり逃げたり、敵を捉えたりするための、構造上の仕掛けが加えられている家屋を指す通称”となっている。カラクリのない古民家は忍術屋敷とは言えない。


旧伊東家

旧対馬家






館山、旧小谷家 明治の建物であるが、床の間裏に60cm×180cmくらいの納戸がある

 

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