2021年1月5日火曜日

東奥日報、忍者屋敷の特集記事について

 




 令和三年14日の東奥日報の紙面で、“弘前・森町 謎の古民家は「忍者屋敷」だった!?”という2面にわたる特集記事があった。東奥日報部長、珍田秀樹の署名があるので、彼の責任記事であろう。青森大学、清川繁人教授の研究を紹介したもので、弘前にある忍者屋敷の履歴と、存続、活用を訴えたものであり、コロナ騒ぎで暗い気持ちを、楽しいトピックで解消しようとした紙面であることはわかる。世界的にも人気のある忍者屋敷が、そっくりそのまま弘前にあり、日本では滋賀県にある甲賀忍者屋敷(望月氏旧宅)に次ぐ、二番目の忍者屋敷であり、実際に忍者が利用した建物としては日本で唯一と鼻息が荒い。

 

 もちろん、忍者の存在自体は、日本史の専門家から誰も否定されていないし、近年の研究では、戦国時代では大きな活躍をしていたことはわかっているし、さらに江戸時代、その子孫がどうなったかなどの研究もあるが、忍者屋敷については、実際には学問の対象にすらなっていない。

 

 通常、こうした特集を組む場合は、一人の研究者のみの意見をそのまま載せると、内容が偏るために、必ず第三者の意見を聞く、裏を取ることが鉄則である。もちろんベテランの記者はそうしたルールは知っていて、弘前大学の研究者や日本史の専門教育を受けた学者に意見を聞こうとしたと推測されるが、多分、よくわからないと断られたのだろう。私が最近読んだ「戦国の忍び」(平山優、角川新書)、「忍者に末裔」(高尾善希、角川書店)など、史学の専門家の本もあるのだから、こうした著者にコンタクトをとり、意見を聞けば良いし、記者は当然、そうしている。ただ、忍者屋敷と言われれば、誰も相手にしなかったのが実情であろう。それならば、胡散臭い学会ではあるが、国際忍者学会の三重大学国際忍者研究センターの藤田伸也教授、山田雄司教授など6名ほどの教職員がいるので、少なくとも忍者屋敷に肯定的な彼らのコメントはとり、掲載すべきであったろう。

 

私のような素人でも疑問に思うのは

1.     なぜ隠し部屋や、うぐいす張りの板があるからくり忍者屋敷を江戸時代、弘前に作る必要があるのか。屋敷にからくりをして、敵の侵入に備える必要性は、江戸後期に全くなかった。さらに床の間の裏に細長い空間、隠し部屋の事例は他にもあるが、忍者屋敷とは言わない。

2.     紙面では、この屋敷を早道之者の詰所としているが、根拠が薄い。少なくとも詰所とするなら、それを示す書あるいはここに住む住人が代々、早道之者の頭であるという証拠は必要だろう。今のところ、幕末の住民、棟方嘉吉が、早道之者を統括する棟方作右衛門貞良の子孫のように書いているが、明治二年弘前絵図では棟方姓は9名いるのに、同姓だから忍者集団であるというのはあまりにひどい根拠である。直系の子孫は棟方晴吉(貞敬)—棟方滝根であり、その住まいは在府町—長坂町である。少なくとの棟方嘉吉が早道之者でなければ、忍者が住んでいた家にもならない。先祖が忍者であった家が忍者屋敷というなら、伊賀忍者の末裔が住む江戸の鮫河橋谷町は忍者村?(「忍者の末裔」では伊賀忍者の末裔、松下家を扱っている。同書は江戸時代の士族の日常がよくわかる良書である)。また詰所は、特定の勤務の人が集まって詰めている所であり、近習詰所や御城番詰所などの場所をさし、個人住宅が詰所となることがあるのか。

3.     棟方家のあった白銀町から森町に詰所を移動し、この家の住民が変わっても詰所として存在し、1735-1750年まで旧忍者屋敷とあり、一旦解体されてから、1761年以降に再建され、そしてその忍者屋敷も火災で消失し、今の建物は江戸後期に作られたものとしている。1と同様に、この建物が早道之者詰所とする文献がなければ、空想であろう。江戸後期、弘前城下で、わざわざうぐいす張りの板を玄関につけ、敵を警戒する必要性はないし、そうした忍者屋敷を作る理由、根拠もない。おそらく津軽史(御日記)などには建物の記載が多く、該当する建物の記載があろうと思うし、御家中屋鋪建家図で同じような構造の家が見つかるだろう。

 

 もちろん、早道之者という隠れた存在であるので、公式な書に詳しく書かれていないことはわかるが、この家を忍者屋敷と考えるにはあまりに文献的な根拠が少なく、理論の構築が断片の記述を集めただけの空想的なものである。医学系の論文では、結論が決まると、それに沿った論文を考察に集めてくるが、同じように清川教授も薬学部なので、森町の建物が忍者屋敷と断定し、それを補足するデーターの断片を持ってきているように思える。一方、人文系の研究者も卑怯で、こうした論があっても、ほとんど無視して、口を閉ざす。面白い記事ではあるが、今のところ“忍者屋敷など存在しないし、それを示す証拠もない”というのは結論であろう。1977年出版の「板柳町誌」には中野松山家がフランス王家のルイ一族の末裔であるという記事があり、この時も、元県会議員が中心になって、松野一族が所有する青銅製の香炉などのルイ一族の遺品を守ろうとする後援会ができたが、これと同じようなものだろう。

 

 新聞も読者を対象にしたものであるので、こうした面白い記事も必要で、それに対して反論するのも興ざめであるが、それでも東奥日報のファンの一人としては私論を述べた。


PS: 紙面では江戸後期における忍者屋敷居住者の変遷を示す図の中に、明治二年弘前絵図を示していて、そこに“添田直太朗”の記載があるが、これは“珍田直太朗”の間違いで、外交官、珍田捨巳の父、有孚のことで、野呂謙吾の長男、直太朗が珍田家の養子に行って珍田有孚となった。同様に2018.2.16の私のブログで1800年当時の住人を斎藤伖八郎と書いたが、新聞の斎藤誠八郎が正しいのかもしれない。”誠”とは読めない気もするが。


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