時代を先取った、切り取った本というものがある。今回紹介する“小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ”(平川克美、ミシマ社、2012)は、本当に小さな出版社の本で、それも9年も前に発行されたものである。すでに6刷のロングセラーで、私のよく行く古書店“まわりみち文庫”に行かなければ書店で買うことはなかった。
タイトルと違い、中身は雑談めいたことが多く、特に“小商い”の方法やノウハウを伝授しているものではないが、なかなか考えさせられる内容となっている。東日本大震災およびそれに伴う原発事故後の日本人、特に若者の心理的変化を通じて、新しい生き方を提示している。これは進行形であるコロナ問題が収束すれば、さらにその傾向はよりはっきりとしていくことであろう。
簡単に言えば、生まれた時は平等で、その後、個として過程でお金持ちになったりとばらけていくが、最終的には死という絶対的平等へと降り下っていく。であれば、自分が本当に楽しいと思える仕事、生き方をしようというものである。いくら大金持ちや地位が高くても、そうしたものをあの世に持っていけるものではなく、無理に苦しい仕事をして生きるくらいなら、多少生活が苦しくても、幸せと感じる生き方をする、その延長上に小さくてもいいが、皆の役に立つ、やりがいのある商いをしようという発想である。
昔は、何か商売をしようと思っても、家がそうした商売に関係していなければ、なかなか起業はできなかったし、それなりの金がかかった。それが今では、コンピュータ一台あれば、商売ができる環境になり、特にコロナ下の状況では、こうした考えは稀なケースでなく、普通のこととなった。むしろ衣料、本、さらには食べ物などの販売は、実店舗よりネットの方が多いかもしれない。実店舗だと周辺に住む人々が顧客となるが、ネット販売になると日本中、あるいは今後、世界中の人々が顧客となる可能性があり、ますます実店舗での販売は減るであろう。一方、田舎の小さな町のお店で、ほとんど客がいなくても、ネット販売が多ければそこで生活できる。
膨張する資本主義では、無限大の消費を前提としており、例えば、テレビが出た時は、それが欲しくて皆金を貯めて買ったが、さらに一家に一台から一人一台に、そして風呂場にもテレビをと、拡大していったが、流石にもう必要ないと思いはじめた。一人が食べられる量は決まっており、いくら安くて、美味しくても限界があるように、無限大の消費ということはあり得ず、むしろ消費者の高齢化を考えると著者の言うように縮小社会になってきたと考えた方が良い。
こうした社会では、いい会社、そこでの昇進、高い収入といった生き方より、田舎で自然に囲まれ農業をしたいという若者がいても全くおかしくはない。実際にこうした若者も増えていているようで、さらに伝統工芸品でも少しずつ若者が修行にくるケースも出ている。一流企業を中心としてピラミッド型社会よりこうした小さな色んな山があった方が面白い社会であり、日本人は昔から自分の好きなものに熱中する性格を持つため、このような新しい社会でも成功する国であるように思える。
コカコーラの1990年頃のCMを見ても今とはそれほど違和感がなく、日本のシティーポップが世界中で聞かれているということを聞くと、もはや実世界、社会、実店舗はここ30 年くらいあまり変化していない。1990年の30年前、1960年はまだ車も珍しく、年配の婦人はまだ着物を着ていたことを考えると、1960年から1990年ほど、1990年から2020年は変化していない。おそらく30年後の2050年になっても実際の社会やお店はそれほど変化はないように思え、映画”2001年宇宙の旅”の世界が現実とならなかったように、未来像はもはやプラトーになってあまり変化しないのだろう。それでもネットを通じた仮想空間はどこかでプラトーになるまで今後も発展し、ベテラン教師であればネット上で家庭教師もできるし、家で専属のコーチから減量トレーニングを、アメリカから英語のレッスンも受けられる。もっと言えば、大学だって実際の授業を受けずに卒業できるだろうし、ポストコロナの世界はこうした従来の実体のある器はあまり進歩せず、逆に実体のない仮想空間、社会が急速に普及していき、都市と地方の差、先進国と途上国の差、人種、ジェンダーの差などがなくなっていくのだろう。そうした社会が一種の縮小均衡の社会なのかもしれない。
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