いつも行っている弘前市の古書店で、店主と話していると、ちょっと見せたいものがあると言われた。取り出してきたのが、白黒ネガフィルムが入った袋で、そこには2枚ずつ切り取られた白黒ネガフィルムが20—30枚ほど入っていた。ネガフィルムは反転してプリントをしないとわからないが、透かして見ると建物や芸妓さんが写っている。袋には“昭和47年 北横町遊郭”の文字が入っている。店主に聞くと、新寺町に住んでいた町田さんから出たものという。町田さんは弘前ロータリークラブで面識があった方で、郷土史、とりわけ風俗史に詳しい方で、弘前に住む誰かの名前を言うと、どこの誰の親戚で、前はこんな仕事をしていて、こんなエピソードがあるといった具合に本当に何でもよく知る、生き字引のような人であった。
そこでネガフィルムのデジタル化する方法を検討した。昔、買った安いフィルムスキャナーがあるが、解像度が恐ろしく低いのでこれは使わず、専門医試験の時に使ったポジフィルムをデジタル化する方法を用いることにした。まずニコンのスライドコピーアダプターを手持ちのタムロンの60mmマクロにステップアップリングを介して装着し、ライトボックスを背景にオートで撮影する。ピント合わせはなかなか難しいので、これもオート設定で撮影する。フィルムのスライドマウントへの固定は、あるブログにマウントの突起を削れば使えると書いていたので、この方法をとった。50枚くらいのネガフィルムは20分くらいで撮影できた。撮ったデジタル画像を今度は反転して見えるようにする必要がある。カメラを買った時についてきたニコンの画像ソフト、CapututeNX-Dを特殊な使い方、トーンカーブを変更することで画像を反転できる。全てのデジタル化したネガフィルムをこのソフトで反転した。さらに使い慣れたアップルの写真ソフトでトリミングし、ワードに貼り付けて印画紙にプリントした。
出来上がった写真を見ると、昭和47年(1972)ころに弘前市北横町に残っていた遊郭だった頃の建物が写っている。現在はこうした建物は一切ないだけに貴重な写真となろう。また芸妓さんの写真も30枚くらいあるが、これは不思議な写真で、何かの雑誌、新聞から切り抜いた芸妓さんの記事を撮影したものである。どこかで見た写真と思い、記憶を手繰ると、昭和57年から陸奥新報で連載された斎藤栄司著「津軽紅灯譚」に載っていた写真と思われる。元は大正から昭和にかけて発刊された幻の茶太楼新聞の記事である。当初は、斉藤さんが、どこかで見つけた茶太楼新聞の写真を撮り、それを新聞の連載に使ったと思っていたが、それ以前の昭和47年に町田さんが、茶太楼新聞の切り抜きを撮影していたことになる。「津軽紅灯譚」は本になっておらず、弘前図書館に新聞記事のコピーがバインダーに入れられているので、一度確認する必要がある。同じものであれば、資料的な価値は少ないが、「津軽紅灯譚」からのコピーでないので、町田さんの撮った白黒写真を公開しても問題はないと思われる。このブログで一部を公開する。
3 件のコメント:
広瀬様
はじめまして。こちらのブログをお気に入りにいれて楽しませていただいております。
私は60歳代で弘前在住でございますが、最後の画像ははじめて拝見いたしました。
北横町に建っていたのでしょうか。
弘前では珍しい和モダン?な建造物で、大変に興味深いです。
北横町の遊郭あとは、かろうじて健生病院跡地の裏にあった遊郭門塀を記憶しております。
また、その道路をはさんだ対面に遊郭をアパートのように貸していたことを覚えております。
最後の画像が北横町に立っていたのでしたら、当時の繁栄を垣間見ることのできる洒落たデザインの建物。
どんな方が設計したのか、施主様はどのような方なのか気になります。
このように凝ったデザインの建物は、弘前では現在でも見当たりません。
想像力を膨らませております。
これからも投稿を楽しみにしております。
ブログをお読みいただきありがとうございます。あくまでネガフィルムが入っていた封筒に”昭和47年 北横町 遊郭”と書いているだけで、写っている建物が北横町にあったかどうかは不明です。ただその2に付け加えさえてもらう”かごや食堂”は横町にあったそうです。また画像が荒く、実際に撮影したものではなく、写真のコピーの可能性もあります。
また芸妓のオリジナル写真は、新聞紙の上の原稿を載せて撮影していますが、その新聞(陸奥新報)の日付を解析すると昭和55年(1980)となり、単に新聞に載った記事を切り抜き、それを写真に撮ってコピーしたのかもしれません。
広瀬様
お返事をありがとうございます。
画像についてのご説明をありがとうございました。
古い建物、特に煉瓦造りの建造物を興味深く思っております。
これからもブログを楽しみにしております。
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