私が生まれたのは昭和31年(1956)で、当時はまだまだ男女差が大きく、男の子は青や緑、女の子は赤やピンクの服を着ていた。大人の女性も含めて、パンツ姿の女性はほとんどおらず、スカート、ワンピース、着物姿の人がほとんどで、ようやく女性のパンツ姿が登場するのは、1970年頃で、ジーンズやパンタロンなどのパンツ姿の女性もこのころから多くなった。
小学生の低学年の頃は別として、男女が一緒に遊ぶことはなく、遊びの種類も違っていたし、教室でそれほど会話することもなかった。子供心にも男女は異なる、別物であると強く信じていた。この考えは長く続き、大人になっても、40歳くらいになってもまだまだ男女は違うという感覚は強く、いい意味では女の人は男性より綺麗好きで、優しいと思っていた。また男性より嘘をつかない、クリーンなイメージを持っていて、特に政治家では男性よりは女性の方がよほどましだと思っていた。
ところが、ところがである。ここ10年前くらいから、部屋を全くかたづけない、ゴミ部屋の若い女性や、男性秘書を口汚く罵る女性政治家、運転の荒い女性を見るにつれ、こうしたフェミニズム的な女性感が急速に消失していった。先日も、近くの弘前中央郵便局の障害者用駐車場に平気で止めている車を注意したところ、中年の女の人から“私は障害者よ”とかなり強い剣幕で怒られ、謝る羽目になった。ただよく考えれば、走って郵便局に行ったことから、少なくとも歩行障害はなく、障害者用駐車場に止める資格はない。またこちらが歩道を歩いているのに突っ込んでくる恐怖のドライバーは女性であることが多い。
こうした男女差がなくなった要因としては、共稼ぎ率が高くなったことがまず、挙げられる。以前は男性が働き、女性は家にいる専業主婦のケースが多く、男女の役割分担が明確であった。ところが最近では多くの家庭で夫婦共に働くことが当たり前になり、料理、掃除、洗濯などの家事も夫婦で分担することも多い。つまり社会生活上で男女の役割に差がなくなり、さらに給与においても夫婦で差がなく、家でも立場上に優劣がなくなった。
こうした流れは、これまで女性的、男性的と言われるものが必要なくなり、ファッションにおいてもユニセックス化が進んでいる。ジーンズ、T—シャツ、スニーカというユニセックスファッションがもはや全く違和感がなく、同様に男性が美容院に行くのも、化粧をするのも普通になってきた。こうした男女のユニセックス化は、単にファッションだけにとどまらず、一つはLGBTQなどのいろんな生き方の肯定に繋がっている。さらにフランスなどでは化粧、ブラジャーを全くしない女性が増え、子供を産みたいが、結婚しない女性も多い。こうした流れは、今後も急速に進み、男女共に同じ服、靴、化粧はせず、髪型は同じになる可能性がある。そうなると唯一の違いは性器の有無だけとなり、単純な確率から言えば、カップルは男—男、女—女、男—女の3種類で、その割合も1/3ずつとなる。例えば、男女共に坊主頭に同じ衣の僧侶の世界を想像してみよう。もちろん尼さんは化粧もせず、灰色や茶色の法衣も男女同じである。生まれた時からこうした世界にいた場合、果たして正常な性欲が出るのだろうか。性欲は大脳皮質が司り、外的刺激がその引き金となるが、ユニセックス化により外的刺激そのものがなくなると性欲自体起こらなくなる可能性がある。案外、人類全滅のシナリオは、こうした男女の性差がなくなることがその要因になるかもしれない。ちょっと怖い話である。
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