2021年7月12日月曜日

昔の弘前大学医学部病院前の本町(1960年代)

本町医学部前の古い家

1の家の側面

本町、消防署近く 衛生湯



 このブログで昔の写真を集めていると募集したところ、早速、ある方から古い弘前の写真を多数、お送りいただいた。本当に感謝する。ただ本の方は、一応、散歩コースとして、一筆書きのように歩いていく構成を取っているので、本来は扱いたい場所であっても、文中の散歩コースから外れた場所がある。その一つが医学部前の本町で、昔は金木屋など大きな商家があり、それを主題として「金木屋物語」という本があるくらいで、是非とも本の中で取り上げたいところであるが、今回は省くことにした。

 

 お送りいただいた写真の中には、1960年代の本町の建物を写した貴重な写真がある。本来は本の中で紹介したいが、今回は上述した理由で載せられない。そこでこのブログで、紹介して少し説明したいと思う。

 

 二階建ての大きな家である。二階の屋根も高く、窓は前面の格子となって美しい。一階はかなりごちゃごちゃになっており、左から“T(3)2834”の小さな看板がある。何か小さな喫茶店のようである。真ん中は”カラープリント・引伸・複写 写真の店 三上カメラ店“という写真屋がある。映画のポスターがあるが、タイトルまではわからない。そして一番右の店には”Suntory snack ラモールの看板が見える。この時点で、”三上カメラ“、”ラモール“で検索したが、一件もヒットしない。そこで片っ端から古い写真を見ていくと、「弘前の街並み 88景 昭和30年」(山口寿、北方新社、平成4年)を見ると、本町の大きな町家によく似た家がある。一階には福士薬局、寿司枡金、などの店が入っているが、ただ二階の屋根、格子のからほぼ同一の建物と考えられ、間違いない。

 

 もう一つの写真は、屋根の形状などから、上記の町家の側面である可能性が高い。「本町略誌」(弘前本町会、昭和61年)に、この家はことが書かれ、同時に側面斜めからの写真も載っており、これによりもう一枚の写真もほぼ同定できた。明治20年代に永井養父太郎がこの建物を建て、旅館経営をしていたが、明治37年には廃業し、その後、松森町の宮川という人が薬屋をしていたという。昭和60年には正面玄関には張り出すような形で小さな店が新たにできているが、この頃はまだ建物があったのだろう。昭和10年の弘前市案内圖では「宮川薬店」となっていて、記述と一致する。ここまで整理すると明治20年代に、永井という人が旅館を経営したが、廃業となり、弘前衛戍病院ができた後明治37年以降は、宮川薬局となった。その後は一階が喫茶店、スナック、寿司屋、食堂などとなり、昭和60年以降になくなったことになる。

 

 三つ目の写真は、どこかの街並みの写真である。拡大すると「衛生湯」の文字が見える。衛生湯は、それまでの木造の湯船、床に代わりに、タイルを使った明るい銭湯として人気を集めた銭湯で、土手町にまずでき、その後の本町にできた。隣の“ガラクタ 古道具 高価買います 石田屋”の看板があり、本町の奥に、こうした骨董屋があるので、これはすぐに本町の奥の方の写真だとすぐにわかった。写真奥の方には消防署の見張り台がある。知人がここの銭湯を利用したと言うので、聞いてみると、同級生の親が経営しており、この銭湯の二階に住んでいた。入り口からトンネルのような通路を抜けるとそこが銭湯だった。写真奥に、見えるのは、昔の消防署で、今は道が広くなったが、当時が狭かったようだ。

 

 衛生湯の隣には「一戸建設」の看板のある古い家があるが、今はもうない。その隣には、今は日本料理店になっている坪田文庫の蔵があり、1960年代ではまだ白壁がはっきりしない。坪田医院の時代なのだろう。またその隣の隣のアート不動産、さらに隣の角地もかなり古い建物であることがわかり、この写真とほぼ同じ建物が今でもある。坪田家は大正14年に出火し、両隣と向かいの古道具屋を焼き、蔵だけが残り、この土蔵で坪田医院をしていた。写真の隣の隣、さらに奥の家もこのころ、昭和初期くらいの家かもしれない。ちなみに衛生湯は大正十二年に開業したことになっているが、洋風の建物で、とても銭湯のようには見えない。

 

 一枚の写真より様々なことがわかり、長い文章より写真の方が、情報量が多い。




 

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